〒165-0032 東京都中野区鷺宮3-29-4 

日本キリスト教団 千歳教会(ちとせ きょうかい)のホームページにようこそ!


 日本で最初の教会が建てられたのは、1872年(明治5年)の日本基督横浜海岸教会(今日の日本基督教会横浜海岸教会)です。それから150年余り経った今日では、日本中に数多く教会があります。私たちの日本基督教団千歳教会もその一つです。
 教会と言いますと十字架のある建物のことを思われるのではないでしょうか。しかし、教会は、[神様によってイエス・キリストを救い主と信じるように呼び出された人の集まり]です。
 聖書の神様は、愛の神様です。愛によって人に命を与えて下さいました。愛によって人の救いの為に御子イエス・キリストが十字架について下さいました。愛によって人の失敗を赦して下さっています。愛によって人に天の国での永遠の命を約束して下さっています。愛によって人生を歩んでいる人を守り、導いて下さっています。
 聖書の神様は、日曜日毎に人を教会へ集めて下さいます。人は、礼拝で神様の愛を聴くと嬉しくなります。平安になります。生きる力が出ます。
 神様は、あなたを教会へ招いておられます。西武新宿駅より鷺ノ宮駅まで急行で二駅12分、駅北口から徒歩4分の交通至便なところにあります。心よりお待ちしています。

心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
(マタイによる福音書5章3~9節)

本日の教会学校(幼児~中学生の礼拝)
2023年1月29日(日) 午前9:45~10:10
☆皆様が安心して礼拝出席出来るようにコロナ対策をしています。
☆親御さまも御子さまとご一緒に出席出来ます。 
☆大人も出席出来ます。
☆下記の「★礼拝について」もお読みください


本日の礼拝(基本高校生以上の礼拝)
2023年1月29日(日) 午前10:30~11:20

★礼拝について
皆様が安心して礼拝出席出来るようにコロナ対策をしています。
☆マスクをしての礼拝となります。
☆新しい方の出席を歓迎致します。お待ちしています。(^_^)
☆どなたでもご自由に出席出来ます。
☆勿論、高校生以下の方でも出席できます。
☆聖書と讃美歌は、教会にあります。

●聖 書 新共同訳書
旧約聖書 イザヤ書44章6節(1133頁)
44:6 イスラエルの王である主/イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。
新約聖書 ローマの信徒への手紙5章6節(279頁)
5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
●讃美歌 1954年版讃美歌  541 22 73 515
とずれ(説教題)「主イエスは死んでくださった」
 
説教者 山本昭夫 
◎ はじめに

▲ パウロは、5章で希望を語り出しました。パウロは、5・2で「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」、5・3で「、苦難をも誇りとします。」と言います。そして先週の5・5で「5:5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」と言いました。
 パウロが言う希望は、単数形です。神が主イエスの十字架、復活、昇天によって全ての人に与えられた唯一の希望です。それは、[罪の赦しと永遠の命と永遠の平安]という希望です。
▲ 主イエスの救い主メシアと信じる人々を迫害する人達は、主イエスが救い主メシアだと信じていません。彼らは、救い主メシアが十字架に死ぬ筈がないと思っているのです。
 彼らがそのように思うのは当然です。人知では十字架についた主イエスが救い主メシアであるなど荒唐無稽に思えるからです。どんなに優れた人でも自分の力で主イエスが救い主メシアだと言える人はいません。何故なら主イエスが救い主メシアとの信仰は、神が人に与えられるものだからです。
▲ この手紙の宛先のローマの教会の人々は、聖霊なる神が働かれて彼らに主イエスが救い主メシアとの信仰を与えられた人々です。ローマの教会は、人の手によって誕生したのではありません。
 世界で最初の教会は、エルサレム教会です。その教会、即ち神によって呼び集められた人達の群れである教会は、ペンテコステ(聖霊なる神の降臨)によって誕生しました。全国、全世界にある全ての教会、神によって主イエスを信じない人間の世界(アダムとエバの末裔の人間世界)から呼び出された人々の群れである教会は、聖霊なる神の働きによるものです。
▲ パウロは、5・5で「神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」と言いました。本日の5・6は、この続きをパウロが言います。
◎ 主イエスは死んでくださった
▲ 本日の5・6でパウロは、「5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。」と言います。
 「実に」は、2つの言葉(エイ/ゲ)です。5・6を強調しています。そしてこの言葉は、「~の故に」と5・5の「神の愛」について5・6で説明しています。5・6は、神の愛にかかる修飾節であると言えます。
 神の愛は、漠然としたものではありません。はっきりと歴史的出来事として現れました。それが神の御子である主イエスの十字架の死です。光輝く神の御子が全ての人の罪の赦しの為に十字架に死んでくださったところに全ての人への神の愛が現れたのです。
 主イエスを救い主メシアと信じる信仰は、瞑想し悟ることによって得られるものではありません。十字架の主イエスを仰ぐ信仰です。聖霊なる神が人に信仰を与えてくださることによって十字架の主イエスを仰ぐ信仰です。主イエスを十字架につけた人々が主イエスを罵り、侮辱したのと対照的に「十字架のこの主イエスこそ私の唯一の救い主メシア」だと十字架の主イエスを仰ぐのです。その場所が教会です。教会には十字架があります。その教会の礼拝で私達は、「あなたこそ私の救い主メシアです。」との心で讃美歌を歌います。また使徒信条を言い表します。献金を致します。
▲ 5・6の言葉の並びは、2つの言葉(エイ/ゲ)に続いて「キリスト」が続いています。この「キリスト」は、「死んでくださった。」のですが、普通でしたら「キリスト」の次に「死んでくださった。」と続くことが多いと思いますが、5・6では、日本語の通りに「死んでくださった。」が最後にあります。故にこの「キリスト」は強調されていると考えることが出来ます。
 パウロは、5・5の神の愛についての説明の為に5・6を語っているのですが、この5・6では「キリスト」は強調されおり、神の愛とは、「キリスト」が「死んでくださった。」ことであると言っているのです。
▲ パウロは、この「キリスト」と「死んでくださった。」の間に私達人間の罪の状態について語っています。パウロは、「わたしたちがまだ弱かったころ」と言います。「弱かった(アスセネオー)」は、形容詞ではなく分詞の動詞です。この言葉には、[無力である、病気である]という意味があります。私達人間は、弱いのです。病気になったことがない、という人はいません。重篤な病気になった人は、それ程多くはないかもしれませんが、軽度の病気には誰もが罹ります。
▲ パウロが「弱かった(アスセネオー)」と言ったのは、私達が病気になると言っているのではありません。主イエスは、私達の病気の為に死んでくださったのではありません。
 この「弱かった(アスセネオー)」は、私達の霊的な弱さです。罪のことです。主イエスは、十字架につけられる前にゲツセマネで祈られました。その時弟子達に次のように言われています。

26:40 それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。26:41 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い(アスセネース。アスセネオーの名詞形)。」

 主イエスは、十字架につけられる前にゲツセマネで祈られる時に弟子達に「ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」と言われました。しかしペトロ達は、主イエスに言われたことを守れずに眠ってしまいました。「肉体は弱い」は、彼らが霊的な弱さである罪を持っていることを表しています。主イエスのご命令を守れなかったペトロ達は、アダムとエバが神のご命令を守れなかったことと似ています。
▲ 人の霊的な弱さ、罪は、神との事柄ですが人の外に現れて来るのです。行いに現れて来ます。神に喜ばれない行いに現れ出るのです。
 先ほど誰でも病気になると申しました。聖書から病気を考えるとアダムとエバが罪を犯す前は病気などしなかった筈です。御国には病気は存在しません。病気はやがて死に至りますが、御国は神の祝福に満ちた永遠の命の世界ですので病気などないのです。私達は、病気をします。病気によって私達は、アダムとエバの末裔の人間世界に生きていることを意識します。
 私達は、神がおられることを信じています。神の守りを信じています。その私達は、病気にひとつによって罪の世界に居ることを知らされます。プーチンによって始まったウクライナ戦争は、普段は罪など思わない人でも人間の罪を意識させた大きな事件です。
 私達は、主イエスを救い主メシアと信じる者です。それだけに私達は、様々な事件に罪の世界に生きていることを鋭く感じるのです。私達は、罪の誘惑に負けて神から頂いた人生を台無しにしないように注意しながら、主イエスに導かれて人生を生きて行くのです。
▲ この霊的弱さの人間世界、最終的には死の世界にいる人々を救い希望を与える為に神の御子主イエスは、一人の人間として来てくださいました。故にパウロは、この手紙の8・3で次のように言っています。

8:3(人が) 肉の弱さ(アスセネオー)のために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。
 パウロは、神の御子である主イエスが人となって私達人間の世界においでになったのは、私達の罪を取り除く為であったと言っています。つまり人となった罪のない神の御子主イエスが十字架に死に、その死の犠牲によって私達人間の罪が取り除かれるのです。人知では理解不可能ですがこれが神の救いのご計画です。
▲ パウロは、コリントの信徒への手紙一でも弱さ(アスセネース)を言います。また弱さと対照的な強さを言います。

1:23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、1:24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは(アスセネース)人よりも強い(イスクロテロス)からです。
 
 十字架の主イエスが救い主メシアと思えない人にとっては、十字架の主イエスを救い主メシアと信じる人が愚かに見えるのです。主イエスの十字架に現れた神の愛が分からないからです。
 ローマの教会を迫害する者達には十字架の主イエスには弱さしか見えないのです。救い主メシアの強さが見えないのです。そのような主イエスが救い主メシアではないと思うのです。そして罪のゆえに弱い筈の自分達が強く思えるのです。
 人は、十字架の主イエスが救い主メシアであるとの信仰が与えられる迄は自分の強さを求めるのです。自分で強く生きて行こうと思うのです。神の愛の中を神に守られながら生きて行く神に造られた人としての生き方が分からないのです。
▲ 主イエスの十字架は、強さと弱さが逆転しています。神は、強さで私達人間を断罪しようとされませんでした。輝く神の御子の十字架の死という弱さによって私達人間の罪を赦されたのです。それが神の私達人間への愛です。愛とは赦しです。愛は、弱さの中に現れるのです。
 また主イエスの十字架に人の強さが表れました。人は、神の御子主イエスを赦そうとはしませんでした。神に対して無力な筈の人間は、強くあろうとしました。彼らには赦しがありませんでした。赦すどころか主イエスを罵り、嘲りました。
▲ 「不信心」とは、[礼拝しない]の意味があります。アダムとエバの末裔として人は、強さを求め、神を礼拝しないのです。ローマの教会を迫害する者達は、ローマ皇帝の強さを喜ぶのです。
 主イエスは、神から離れて強さを求めて生きて行こうとする人間世界においでになり、「死んでくださった。」のです。この言葉は、能動態継続の文法です。即ち主イエスは、十字架につけられましたが、神のご計画によって自ら十字架におつきになったのです。  
継続の文法ですから主イエスは、時代と地域を超えて全ての人の罪を赦される為に死んでくださったのです。誰もが弱さを持っています。神に罪を犯している弱さです。造り主である神に立ち返ろうとしない弱さです。しかし人は、強さを求め、強さによって生きて行こうとします。強さには愛がありません。ファリサイ派の人達は、強く生きようとしました。その彼らは、他者に対して愛ではなく裁きを行いました。
◎ むすび
▲ 強さを求める人は、神から離れて行ったアダムとエバの生き方をしています。私達は、強さを求めるのではなく、主イエスの十字架の弱さ、神の愛によって与えられた[罪の赦しと永遠の命と永遠の平安]の恵みに感謝し、自分の弱さを見つめつつ、罪の世界である人間世界の危うさを意識しつつ、神を愛し、人を愛し、赦す者でありたいと思います。

◎ホームページをご覧くださった皆様へ
▲ 寒い日が続いています。ご自愛ください。コロナが収まって行きますように。ウクライナ戦争で悲しむ人達の為に祈ります。⛪⛪


 ★過去のおとずれ(説教)要約
 
※更新後も読みやすくするために訂正することがあります。
 ここには基本的に過去2回分の説教のみ掲載しています。
  もし、それより過去のものをお読みになりたい方がいらしたら、
 「問い合わせメール」にてお知らせください。(^^)

◎1月22日礼拝
●聖 書 新共同訳書
旧約聖書 詩編119編132節(966頁)
119:132 御顔をわたしに向け、憐れんでください/御名を愛する者への裁きに従って。
新約聖書 ローマの信徒への手紙5章5節(279頁)
5:5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
●讃美歌 1954年版讃美歌  540 21 72 324
とずれ(説教題)「神の愛が注がれている」
 
説教者 山本昭夫 
◎ はじめに

▲ パウロは、5章で希望を語り出しました。この希望は、主イエスを救い主メシアと信じる信仰を与えられた人に与えられる1つの希望です。主イエスは、この希望を与える為にクリスマスに私達人間の世界においでになられました。そして十字架に死なれ復活され昇天されたのです。
▲ この希望とは[罪の赦しと永遠の命と永遠の平安]です。この希望は、遥か昔に神がアブラハムに約束された神の祝福です。神の御子主イエスは、この約束の成就する為にアブラハムの子孫としてお生まれになりました。そして「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコによる福音書1・15)と言われました。
 その主イエスは、山上の説教の最初のところで「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」と言われ、8つ目の幸いで「5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」と言われました。また主イエスは、数々の譬え話で天の国について言われました。マタイによる福音書13章で次のように言われています。

13:44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。13:45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。13:46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
 このように天の国について語られた主イエスは、或る時に12人の弟子達を街や村に遣わされました。遣わされる時に主イエスは、弟子達に「10:7 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。」(マタイによる福音書)と言われました。
 パウロは、12弟子ではありませんが使徒として主イエスが十字架、復活、昇天で成し遂げられた神の祝福である[罪の赦しと永遠の命と永遠の平安]を人々に語りました。それは天の国を語ったということになります。
▲ そのパウロは、神の力によって語り、主イエスを救い主メシアと信じる人達の群れである教会を建てました。神がパウロを用いて教会をお建てになられたと言った方が適切かと思います。
 全ての教会で主イエスは、礼拝で神の祝福である[罪の赦しと永遠の命と永遠の平安]を人々に語られます。私達の千歳教会でも主イエスが語られます。パウロの時代と同じ神の祝福を語られます。これから先も語られます。全ての諸教会に聖霊なる神によって主イエスがおられ、主イエスが再臨される時まで神の祝福をお語りになられます。
◎ 神の愛が注がれている
▲ パウロは、5・2で「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」と言いました。「希望を誇りにしています。」の「誇り」とは、パウロの人間的な自慢ではありません。神を誉め頌えることです。主イエスの十字架、復活、昇天によって全ての人に[罪の赦しと永遠の命と永遠の平安]を与えてくださる三位一体の神を誉め頌えると言っているのです。
▲ 誉め頌える時と場所は、教会の礼拝です。教会は、主イエスを救い主メシアと信じる人達が神の祝福の恵みを聴いて神を誉め頌える為に神がお建てになった信仰者の群れです。群れの人々は、一人で神を誉め頌えるのではなく、神に集められるのです。集まって神を誉め頌えるのです。そして必ず聖餐礼をします。聖餐に与らない信仰者の群れはありません。信仰者の群れは、最後の晩餐によって新しい契約を与えられた主イエスによって招かれる群れだからです。
▲ パウロは、また5・3で「苦難をも誇りとします。」と言いました。この「苦難」とは迫害のことです。パウロは、迫害の中でも神を誉め頌え続けると言っています。迫害されるから主イエスを救い主メシアと信じるのを止めるのではありません。どんなことがあっても主イエスを救い主メシアと信じることを止めないのです。それはパウロが神の御子主イエスの十字架の死に私達への神の愛を知ったからです。
 御子主イエスが十字架につくほどに神に愛されていることを知った人は、逆境の中でも神を愛し続けるのです。それは神の教会に繋がり、神に呼び出されて礼拝を守ることです。「守る」という言い方は、どんなことがあっても礼拝し続けるというニュアンスがあります。
▲ このように言ったパウロは、「5:5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」と言います。
 「欺く(カタイスクノー)」には、[辱める、侮辱する、失望させる]の意味があります。「欺く」の日本語には[言葉巧みにうそを言って相手を信頼させておいてだます]の意味があります。
 この言葉を分解すると[敵対]という言葉と[辱める]という言葉になります。パウロは、5・3で「苦難をも誇りとします。」と言いましたが、この苦難とは迫害のことでした。「5:5 希望はわたしたちを欺くことがありません。」も迫害の中にいるローマの教会の人々への言葉です。
▲ 迫害者は、「主イエスなど救い主メシアではない。主イエスが十字架に死んだことで全ての人の罪が赦された。そしてこの世の人生の先に永遠の命と永遠の平安が約束されているなどあり得ない。」と言っているのです。迫害者には十字架につけられたような者が人の罪を赦す神の御子であるなど荒唐無稽である。出鱈目である、と思えるのです。
 「欺く(カタイスクノー)」は、現在形ですのでローマの教会の人々が迫害に直面していることを表しています。先週申し上げましたがパウロがこのローマへの信徒への手紙を書いたのが西暦55年頃です。ローマで殉教したのが西暦67年頃です。この手紙を書いて僅か10年後にはパウロが殉教したのです。徐々に迫害が強くなって来た中でパウロは、この手紙を書いています。
 パウロは、この手紙の中で「欺く(カタイスクノー)」という言葉を使って次のように言っています。

9:33 「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望する(カタイスクノー)ことがない」と書いてあるとおりです。
10:9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。…10:11 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望する(カタイスクノー)ことがない」と書いてあります(イザヤ書28・16)。
 迫害者にとって主イエスは、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。十字架の主イエスが全ての人に[罪の赦しと永遠の命と永遠の平安]を与えるようなお方には思えないのです。神の御子に思えないです。自分が持っている罪、神への罪など分からないです。分からないので主イエスが神の御子救い主メシアだということも分からないのです。地上の人生の先に用意されている永遠の御国も分からないのです。
▲ 迫害者だけでなく全ての人が分からないのです。神に罪ある者が自分の力で主イエスが神の御子、救い主メシアであることなど分かる筈がないのです。永遠の御国も分かる筈がないのです。
 主イエスが分かるようにしてくださいます。主イエスは、公生涯の中でペトロ達に死と復活を弟子達に語られました。しかし主イエスが復活された時に弟子達の誰一人として信じませんでした。
 例えばトマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言いました。復活の主イエスは、そのトマスをはじめ弟子達に現れてくださいました。パウロも主イエスの十字架も復活も信じませんでした。そして信じる人達を迫害しました。復活の主イエスは、そのパウロに声を掛けられました。その様子が使徒言行録に記されています。

9:3 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。9:4 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。9:5 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
 今日でも主イエスは、教会で語りかけてくださいます。教会の礼拝の御言葉(「おとずれ」)は、説教者が語りますが主イエスが語られているのです。旧約聖書の時代は預言者を通して神(主イエス)が語られ、教会の時代も説教者を通して神(主イエス)が語られるのです。語られる内容は、神の祝福です。パウロは、これを希望と言います。既に上述しましたように希望とは[罪の赦しと永遠の命と永遠の平安]です。
▲ パウロは、続けて「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」と言います。原文では「(何故なら)神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。わたしたちに与えられた聖霊によって」という順序になっています。つまり「希望はわたしたちを欺くことがありません。」と言った後に「(何故なら)神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」と言っています。
 希望は、主イエスが十字架、復活、昇天によってパウロやローマの教会の人々に約束された神の愛による神の恵みです。絶対的不変の神の恵みです。神がパウロやローマの教会の人々を欺くことはあり得ません。
 しかしパウロが「希望はわたしたちを欺くことがありません。」と言ったもう一面があると思います。つまり「自分達は、主イエスを救い主メシアと信じない者にはならない。希望を信じない者にはならない。」と言っているのです。故にパウロは、続けて「(何故なら)神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」と言っているのです。
▲ 「注がれている(エクケオー)」には[注ぎ出す]の意味があります。完了形受動態です。[神の愛が神から注ぎ出された]のです。完了形ですので「いる」ではなく「れた」です。
 この動詞(エクケオー)は、エク(外から、完全に)+レオー(注ぐ)から構成された言葉です。神の愛は、外から完全に人に注がれたのです。完了形は、主イエスの十字架、復活、昇天が完了した完了を表しています。つまり人への神の愛は、主イエスの出来事によって完全に完了したのであり、今後に別の形での神の愛が示されることはないのです。
 神の愛が完了しているとは、[罪の赦しと永遠の命と永遠の平安]という全ての人への神の恵みが確実であるということです。神は、真実なお方です。誠実なお方です。私達を欺くことはないのです。人間とは違うのです。
 同時にパウロは、「希望はわたしたちを欺くことがありません。」を神の愛を受けた者として言います。「自分達は、主イエスを救い主メシアと信じない者にはならない。希望を信じない者にはならない。」と。完全な神の愛が主イエスの出来事によって示されたから故にです。故に迫害の中でも「誇る」、神を誉め頌え続けると言えたのです。
◎むすび
▲ 父なる神は、御子主イエスの十字架、復活、昇天によって私達への愛をお示しになられました。神の愛が完全に私達に注ぎ出されました。神の手元にはもう愛は残っていないのです。それ程に私達を愛してくださっておられる故に全ての人が主イエスを救い主メシアと信じる者にしてくださいます。永遠の希望を与えてくださいます。
 また私達も「希望はわたしたちを欺くことがありません。」と言います。神の愛から離れ、主イエスの十字架を無駄にして永遠の希望を失うようなことはしない、と言います。そして今日迫害はありませんが、様々な難しい事情があっても主イエスから離れず、教会の礼拝で神を誉め頌えたいと思います。

◎ホームページをご覧くださった皆様へ
▲ 寒い朝です。今週は強烈な寒波がやって来るとの予報です。皆様、ご自愛ください。全ての人の傍らに慈しみ深い主イエスがいてくださいますように。平和の主イエスが争いの場にいてくださいますように。⛪⛪


◎1月15日礼拝
●聖 書 新共同訳書
旧約聖書 詩編50編15節(883頁)
50:15 それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって/お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」
新約聖書 ローマの信徒への手紙5章3~4節(279頁)
5:3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、
5:4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
●讃美歌 1954年版讃美歌  539 20 70 292
とずれ(説教題)「苦難から希望へ」
 
説教者 山本昭夫 
◎ はじめに

▲ XmasキャンドルとXmasツリーが片付けられてXmasの雰囲気がなくなりました。普段の礼拝に戻った感じが致します。先週よりローマの信徒への手紙を再開致しました。神は、私達人間が神の傍らに居ることを欲せられました。
 故に御子主イエスをクリスマスの夜に私達人間の所へお遣わしになられました。そして御子主イエスは、神が私達の傍らに居られるようになる為に十字架の死によって全ての人がアダムとエバの末裔として生まれつき持っている神への罪を贖われたのでした。そして私達は、神の御目には罪のない者とされました。
▲ パウロは、3章から十字架の主イエスを救い主メシアと信じる信仰によって全ての人が義とされると言って来ました。この信仰は、私達人間が主体的能動的に信じる信仰ではなく、神が与えてくださる信仰です。但し機械的に神が与えてくださるのではありません。ですから私達が主イエスへの信仰を祈り求めて行くことが大切です。
 そのパウロは、先週の箇所で「わたしたちは信仰によって義とされたのだから…神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」と言いました。神の栄光は、私達人間に命を与えることです。神は、地上を生きる私達に日々命を与えてくださいます。それだけでなく神は、私達に地上の人生の先に御国での永遠の命と永遠の平安を与えてくださいます。神の御子主イエスは、この為に十字架の死から3日目に復活され父なる神の御許に昇天されました。罪を赦された私達は、この主イエスの復活と昇天に与るのです。つまり私達も地上の先にある御国に引き上げられて永遠の命と永遠の平安の恵みに与るのです。
◎ 苦難から希望へ
▲ 5・2で「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」と言ったパウロは、本日の箇所で「5:3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。」と言います。 先週申し上げましたように5・2は私訳すると「私達は、神の栄光の上に希望を誇っている(現在形)。」です。5・3を私訳すると「それだけでなく私達は、圧迫の中でも誇っている。」です。
 5・2の「希望」は、[御国での永遠の命と永遠の平安]の希望です。「誇りにしています。」と言うパウロは、自分を誇っていると言っているのではありません。この希望が神の恵みである[御国での永遠の命と永遠の平安]ですからパウロは、この恵みを給わる神を誇っていると言っているのです。換言すれば[神を誉め頌えている]と言っているのです。
▲ 教会の礼拝で私達は、御言葉への応答として讃美歌を歌い、使徒信条によって信仰を言い表し、献金を致します。それは礼拝で語られる御言葉が主イエスの出来事による全ての人の[罪の赦しと永遠の命と永遠の平安]の恵みだからです。私達の地上の人生の先に約束されている永遠の希望だからです。私達は、礼拝毎にその永遠の希望が語られる神の御言葉を喜び、その恵みへの応答をしているのです。
 本日も全国の諸教会で礼拝が守られています。しかしその礼拝で主イエスの出来事による全ての人の[罪の赦しと永遠の命と永遠の平安]の恵みが語られているでしょうか。「あなたの人生の先には御国での恵みが約束されている」と語られているでしょうか。
 私が神学生の時に説教学の授業で担当の先生が言われた言葉を鮮明に覚えています。「本日の礼拝が最後になる方がいるかもしれない。次週の礼拝から来られない方がおられるかもしれない。故に礼拝では本当に伝えなければならないことを語らねばならない。」と言われました。
 私達は、何時地上の人生を終えるか分からないのです。明日がきっと来る、と多くの人が思っています。しかしその保証はありません。私達は、来週も一緒に礼拝を守れると思っています。しかし保証はありません。何時最後の礼拝になるか誰も分かりません。故に礼拝では全ての人の[罪の赦しと永遠の命と永遠の平安]の恵みが語られ、聴かれることが重要であるのです。
▲ 5・2で「神の栄光の上に希望を誇っている」と言ったパウロは、5・3では「それだけでなく私達は、圧迫の中でも誇っている。」と言います。「希望を誇っている」と言うのは分かります。しかし「圧迫の中でも誇っている。」とも言うのです。「希望」が単数形であるのに対して「圧迫(スリプシス)」は複数形です。この言葉の動詞形(スリボー)には、[上から強く圧する、圧し潰す、苦しめる]の意味があります。
 新共同訳聖書で「苦難」と訳されているこの言葉は、迫害のことです。マタイによる福音書で主イエスは、次のように言われています。

24:9 そのとき、あなたがたは苦しみ(スリプシス)を受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。
24:21 そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難(スリプシス)が来るからである。

▲ パウロがローマの信徒への手紙を書いたのが西暦55年頃です。第3回伝道旅行の時にコリントの町で書きました。何故パウロがコリントに居たのかと申しますと3年間滞在したエフェソの町を追い出されたからです。身の危険を感じてパウロは、エフェソを出てコリントに辿り着いたのでした。エフェソでの騒動は、異邦人による迫害です。
 しかし当時の世界の覇者であったローマ帝国による迫害もありました。西暦50年頃にローマ皇帝クラウディウスによってユダヤ人はローマから撤去せよとの勅令が発布されました。パウロは、この手紙を書いてから僅か約10年後の西暦67年にはローマで殉教しています。ローマ帝国の迫害が迫って来ていました。
▲ 「誇っている」は、[神を誉め頌える]ことです。全ての人に「希望」という[罪の赦しと永遠の命と永遠の平安]が神によって与えられるのですからパウロが[神を誉め頌える]と言うことは首肯出来ます。
 そのパウロは、「圧迫の中でも誇っている。」と言います。迫害の中でも[神を誉め頌える]と言っています。この手紙を書いたのが西暦55年頃です。それから西暦313年のミラノ勅令迄の長い間教会は迫害を受けて来ました。パウロもその中で殉教して行きました。
 主イエスは、マタイによる福音書で次のように言われています。

10:28 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

 パウロやローマの教会の人々は、迫害に遭ったからといって主イエスを信じることを止めることはしなかったのです。パウロは、「圧迫の中でも誇っている。」と言います。「誇っている。」は、現在形です。故に異邦人やローマ帝国の迫害に遭ってもパウロもローマの教会の人々も礼拝で神を誉め頌えているのです。神を誉め頌えることを止めないのです。
▲ パウロは、「圧迫(スリプシス)」(新共同訳聖書では「苦難」)の言葉をこのローマの信徒への手紙の他の箇所でも使っています。

8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難(スリプシス)か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
12:12 希望をもって喜び、苦難(スリプシス)を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。

 パウロは、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難(スリプシス)か。」と言っています。「希望をもって喜び、苦難(スリプシス)を耐え忍び」と言っています。
 パウロは、「圧迫(スリプシス)」の中でも主イエスを救い主メシアと信じる人達が礼拝を守り、神を誉め頌え続けられているのは、「キリストの愛」、「希望」が与えられているからであると言います。
 全ての人への「キリストの愛」は、主イエスの十字架の死に現れました。神の御子が十字架に死んでくださったのです。自らの死によって全ての人が生まれつき持っている神への罪を贖われたのです。罪のない神の御子が人の罪の赦しの為に死んでくださったのです。ここに私達人間への神の愛、主イエスの愛が現わされたのです。これ以上の私達人間への神の愛、主イエスの愛の表現はありません。私達人間への神の最高の愛が主イエスの十字架の死に現わされたのです。
 そしてこの「キリストの愛」は、「希望」と結びついています。上述したように「希望」は、主イエスの十字架による罪の赦しによって全ての人が[御国での永遠の命と永遠の平安]の恵みに与るという永遠の希望のことです。
▲ 人は、十字架に現れた「キリストの愛」、神の愛を知らされた時に「圧迫(スリプシス)」の中でも神を礼拝します。神を誉め頌え続けます。御子主イエスの十字架に応えて行こうとします。迫害は、「キリストの愛」、神の愛の大きさをパウロやローマの教会の人々に確認させる契機になりました。「本当に自分は、主イエスの十字架の死に現れた神の愛、御子主イエスの愛の中で人生を歩んで行くことが出来るのか。」と自問したのです。そして「この愛の中で人生を歩んで行こう。」という結論に至ったのです。
▲ パウロは、「わたしたちは知っているのです」と言います。「知っている」は完了形です。これ迄の様々な迫害によって「苦難は忍耐を、5:4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」パウロもローマの教会の人々も体験して来たのです。そしてこれからも主イエスを救い主メシアと信じる信仰生活の中で体験して行くことになります。「キリストの愛」、神の愛と永遠の希望を知っている者達は、苦難、忍耐、練達を経て永遠の希望を益々堅固にしていったのです。
 「苦難(スリプシス)」とは迫害です。「忍耐(ヒュピモネー)」の動詞(ヒュポネノー)には、[逃げないで踏みとどまる、持ちこたえる]の意味があります。上記のローマの信徒への手紙12・12に出て来ます。

12:12 希望をもって喜び、苦難(スリプシス)を耐え忍び(ピュポネノー)、たゆまず祈りなさい。

「練達(ドキメー)」には、[立派に証明された品格、証拠]の意味があります。
▲ 迫害に遭っても主イエスを救い主メシアと信じる人は、信仰者である立場から逃げないで踏みとどまるのです。それによって信仰者としての品格が立派に証明されるのです。神に対して、また周りの信仰者に対して迫害する者達に対して。信仰者は、このようなことを経て神の愛、「キリストの愛」に裏打ちされた御国での永遠の希望である[御国での永遠の命と永遠の平安]の恵みを地上の人生の中で益々堅固に保ち続けるのです。故にパウロは、「苦難をも誇りとします。」と苦難について語り始め、最後を「希望を生むということを。」と希望で終えています。
◎ むすび
▲ 今日の教会を取り巻く状況は、パウロやローマの教会の人々が体験したものと相当違います。迫害はありません。かといって伝道し易い時代かというとそうではありません。組織的な大きな迫害などありませんが、個人的な様々な問題で信仰が試されるようなことが誰にでもあります。今の時代にも主イエスの愛、神の愛は不変です。神は、一人一人を愛し、永遠の希望を与えてくださっておられます。復活の御子主イエスは、共に歩んでくださっておられます。神が一人一人に働かれて神の愛、主イエスの愛に気付きますようお祈りしています。

◎ホームページをご覧くださった皆様へ
▲ 新年になって半月が経ちます。寒の内ですがそれ程寒くはない日が続いています。ありがたいです。冬至からひと月が経とうとしており少し日が長くなったのを感じることが出来るようになりました。変わらないのはウクライナ戦争です。愚かな戦争によって多くの命が失われ、家族を失った多くの人の悲しみが溢れています。平和が回復しますように。国内にも悲しむ人や不安を抱えている人が多くおられることと思います。愛の神様が傍らに居てくださり、慰めと励ましをくださるようお祈致します。全ての人が永遠の希望に気付きますように。⛪⛪