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〒165-0032 東京都中野区鷺宮3-29-4 

日本キリスト教団 千歳教会(ちとせ きょうかい)のホームページにようこそ!


 日本で最初の教会が建てられたのは、1872年(明治5年)の日本基督横浜海岸教会(今日の日本基督教会横浜海岸教会)です。それから150年余り経った今日では、日本中に数多く教会があります。私たちの日本基督教団千歳教会もその一つです。
 教会と言いますと十字架のある建物のことを思われるのではないでしょうか。しかし、教会は、[神様によってイエス・キリストを救い主と信じるように呼び出された人の集まり]です。
 聖書の神様は、愛の神様です。愛によって人に命を与えて下さいました。愛によって人の救いの為に御子イエス・キリストが十字架について下さいました。愛によって人の失敗を赦して下さっています。愛によって人に天の国での永遠の命を約束して下さっています。愛によって人生を歩んでいる人を守り、導いて下さっています。
 聖書の神様は、日曜日毎に人を教会へ集めて下さいます。人は、礼拝で神様の愛を聴くと嬉しくなります。平安になります。生きる力が出ます。
 神様は、あなたを教会へ招いておられます。西武新宿駅より鷺ノ宮駅まで急行で二駅12分、駅北口から徒歩4分の交通至便なところにあります。心よりお待ちしています。

心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
(マタイによる福音書5章3~9節)

本日の教会学校(幼児~中学生の礼拝)
2026年4月5日(日) 午前9:45~10:10
☆皆様が安心して礼拝出席出来るようにコロナ対策をしています。
☆親御さまも御子さまとご一緒に出席出来ます。 
☆大人も出席出来ます。
☆下記の「★礼拝について」もお読みください

本日の礼拝
①イースター礼拝(基本高校生以上の礼拝)
2026年4月5(日) 午前10:30~11:30
②小平霊園での墓前礼拝 午後2:00~
★イースター礼拝と墓前礼拝について
☆イースター礼拝
☆イースター礼拝は、十字架に死なれた救い主メシアである主イエスが3日目に復活されたことを記念する礼拝です。主イエスの復活は、地上の人生の終えた全ての人に御国での永遠の祝福があることを示しています。教会にとってクリスマスと同じく大切な礼拝です。
☆新しい方の出席を歓迎致します。お待ちしています。(^_^)
☆どなたでもご自由に出席出来ます。
☆高校生以下の方でも出席できます。
☆母子室がありますので小さいお子様連れでも安心です。
☆聖書と讃美歌は、教会にあります。
☆礼拝の中で献金がありますが、する、しない、金額は自由です。
☆基本的に毎月第一日曜日に聖餐礼を致します。
罪の赦しと御国での永遠の祝福の印である主イエスの御体を表すパン
🥐と血潮を表ぶどうジュース🍷を頂きます。洗礼を受けておられる方、または幼児洗礼を受けて信仰告白をされた方は何処の教会の方でも頂けます。
☆墓前礼拝
午後2時より小平霊園にある教会穂地で致します。救い主メシアである主イエスによって神様の御国(天国)へ召された故人を偲び、故人に御国で永遠の命と永遠の平安を給わる神を誉め頌えます。
☆イースター礼拝 
聖 書 新共同訳聖書
◎ 旧約聖書 詩編18編47節(849頁)
18:47 主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの神をあがめよ。
◎ 新約聖書 マタイによる福音書28章5~7節(59頁)
28:5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
讃美歌 1954年版讃美歌  543 146 148 203 151
とずれ(説教題)「主イエスは復活された」
説教者 山本昭夫牧師
 はじめに
▲ 今日はイースターです。イースターとは、十字架に死なれた主イエスが復活されたことを記念する日です。教会にとってイースターは、クリスマスに並ぶ重要な記念日です。
 十字架に死なれた主イエスが復活された記念日をイースターと呼ぶようになったのは、ゲルマン神話に出て来る[春の女神(エオストレ)]に由来すると言われています。
 本日はマタイによる福音書から主イエスが復活された日の様子を見てみたいと思います。

◎ 主イエスは復活された
▲ 本日のマタイによる福音書28・5には次のように記されています。

28:5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
 この「婦人たち」については、28・1に「28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」と記されていますので「マグダラのマリアともう一人のマリア」であることが分かります。
 この二人のマリアについては、主イエスが十字架につけられた時に「大勢の婦人たちが遠くから見守っていた」(27・55)、その婦人達の中には「マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。」(27・56)と記してあります。故に「墓を見に行った」二人のマリアとは「マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア」であると考えられます。
 この二人のマリアは、そして主イエスが墓の中に納められたのを見ていました。そして日曜日の早朝に主イエスが収められて墓に行きました。丁寧な葬りをする為です。
 私達日本人にとって墓と言いますと墓石があってその下の地下にお骨が収められている墓を思います。しかし主イエスの時代の墓は全く違ったものでした。大きな空洞があってその空洞の中に遺体を置きました。そして空洞の入口に大きな石を置いて蓋にしました。
▲ この二人のマリアが主イエスが収められている墓に行った時に驚くべき出来事が起こりました。「。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。」(28・2)「28:4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」(28・4)のでした。
 その時に「28:5 天使は婦人たちに言った。」のです。私訳すると「天使は、婦人達に語り始めて言った」です。「語り始めて(アポクリオー)言った(レゴー)」の2つの動詞は、継続の文法です。それは今後同じようなことは二度と起こらないことを表しています。
 即ち主イエスの十字架は一度限りの出来事であり、主イエスの復活も一度限りの出来事なのです。これからも人間の歴史は続きます。今年は2026年です。100年後も1000年後も主イエスの十字架と復活は二度と起こりません。そして100年後も1000年後も人の歴史は、この主イエスの十字架と復活の出来事の影響を受け続けるのです。人間の歴史は、この出来事によって規定されるのです。
▲ 「語り始めて(アポクリオー)」は、人にとって思いがけない出来事について主イエスが語り始める時に使われる言葉です。
ヨハネによる福音書2・18
2:18 ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。2:19 イエスは答えて(アポクリオー)言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」2:20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。2:21イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。
 主イエスは、人々にエルサレム神殿を「三日で建て直してみせる」と言われました。誰もが想像出来ないことを言われました。そしてこの主イエスの発言は、主イエスが十字架に死んで3日目に復活することについてエルサレム神殿の関係で言われました。即ち主イエスの十字架の死と復活は、エルサレム神殿に替わるものであると言われたのです。
 エルサレム神殿の役目は、神殿に祭司がいて神に対する罪を赦す祭儀を執り行っていました。主イエスの十字架の死と復活は、その神殿に替わる出来事でした。即ち全ての人が持っている神への罪を贖い、赦す為に主イエスは、十字架に死なれて復活なさったのです。
▲ 天使は、この主イエスの復活を婦人達に告げるために神から遣わされたのです。
 天使は、「婦人達に語り始めて言った」のです。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが」と。「恐れることはない」は、現在命令形です。私訳すると「恐れるな」です。
 婦人達は恐れていました。「28:4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」のですが、婦人達も天使が現れたことに恐れていました。
 天使が「恐れるな(フォベオー)」と言ったのはこれが初めてではありません。主イエスがお生まれるになる際にも天使は、現れて「恐れるな」と命令形で言いました。
①マタイによる福音書
1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず(フォベオー、命令形)妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
②ルカによる福音書
1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
 神の御子主イエスが人の姿でお生まれになる。マタイによる福音書では天使は、ヨセフに「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と告げました。ルカによる福音書では天使は、乙女マリアに「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」と告げました。主イエスは、乙女マリアが聖霊なる神によって生まれたのです。主イエスの誕生は、神の業でした。 
▲ 人は、神に対して罪を持っています。故に神から遣わされた天使を恐れます。主イエスの誕生に際してはヨセフとマリアが恐れました。そして主イエスの復活に際しては二人のマリアが恐れました。
 恐れは拒絶を表しています。しかしヨセフや彼女達が本当に恐れ、拒絶したのは、天使ではなく天使が告げるメッセージです。故に主イエスの降誕に際してマリアは、「1:34 マリアは天使に言った。『どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。』」と言って天使のお告げを拒みました。
 主イエスの復活に際して二人のマリアが天使を恐れました。天使を拒絶しました。しかし彼女達が本当に拒絶したのは、天使ではなく天使が告げる主イエスの復活の出来事です。
 二人のマリアは、単純に主イエスの復活を拒絶したのではありません。二人のマリアが拒絶したのは、[神の御子である主イエスが十字架に死に、その死によって全ての人が持っている神に対する罪を引き受けてくださった。それによって全ての人がもはや神に対する罪を持っていない。そして十字架に死んだ主イエスが復活したことによって全ての人が御国での永遠の命という新しい命を神から頂くことになった。]という神の恵みを拒絶したのです。
▲ 天使は、二人のマリアに「十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、」と言います。私訳すると「あなた方のことを知っている。あなた方は、十字架につけられた(完了形)イエスを捜している(現在形)ことを」です。
 「十字架につけられた(完了形)」は、主イエスが十字架で完全に死なれたことを表しています。更にこの完了形は、神の御子主イエスが死ぬことによって[その死によって全ての人が持っている神に対する罪を引き受けてくださった。それによって全ての人がもはや神に対する罪を持っていない。]ことを表しています。天使は、二人のマリアが天使を恐れ、拒絶したその内容について「十字架につけられた」と完了形で言うことによって彼女達の拒絶にも拘わらず主イエスの十字架の死によってもたらさたれ神の恵みを明確な言葉によってではないけれども暗示しているのです。
▲ 天使は、続けて28・6を言います。

28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
 「あの方は、ここにはおられない(現在形)。復活なさったのだ(継続の文法の受動態)。」と天使は、継続の文法の受動態で主イエスの復活を告げます。
 主イエスは、父なる神のご計画によってご自分のご意志で全ての人の罪を贖う為に喜んで十字架に死なれました。そして陰府(地獄)へ降られました。それによって陰府にいる全ての人にご自分の十字架の死による罪の贖いの恵みを与えられたのです。
 その主イエスは、自力で陰府から上がって復活されたのではありません。父なる神が陰府に降った主イエスを引き上げてくださったのです。
陰府の底迄落ちた主イエスを父なる神が引き上げてくださって復活させられたのです。父なる神は、主イエスだけを陰府から引き上げられたのではありません。主イエスの死によって神に対して罪を赦された全ての人をも陰府から引き上げてくださったのです。

◎むすび
▲ おとずれの初めの部分で「100年後も1000年後も人の歴史は、この主イエスの十字架と復活の出来事の影響を受け続けるのです。人間の歴史は、この出来事によって規定されるのです。」と申し上げました。
 主イエスの十字架の死と復活から二千年が経ちました。この主イエスの出来事から二千年の間に夥しい人が地上の人生を終えました。しかし誰一人として陰府(地獄)に落ちた人はいません。今、父なる神の右の座におられる主イエスによって全ての人が御国へ引き上げられるからです。
 私達は、この主イエスの復活を喜びます。何故なら私達の地上の人生の先には御国での永遠の命と永遠の平安が約束されているからです。既に地上の人生を終えられた教会の仲間たち、私達の家族が御国へ引き上げられているからです。
 4月から新年度が始まりました。私達は、復活の主イエスによって導かれて新年度を歩み出します。希望を持って歩みます。
◎ホームページをご覧くださった皆様へ
▲ 今日はイースターです。昨日の雨が上がり朝から良く晴れて暖かい朝になりました。全ての教会で喜びのイースター礼拝が守られます。墓前礼拝をする教会もあることでしょう。全ての人に主イエス復活の喜びがありますように。4月からの新年度の歩みに神様の祝福がありますように。 ⛪⛪
★次週4月12日の予告
☆聖書 
 旧約聖書 ゼカリヤ書2章14節
 新約聖書 マタイによる福音書28章8~10節
☆おとずれ題(説教題)
 喜べ、恐れるな
☆讃美歌
 544番、7番、153番、154番
★過去の説教(おとずれ) 
☆過去2回の説教(おとずれ)が載せてあります。
◎3月29日受難週礼拝&荻窪清水教会との交換講壇礼拝
聖 書 新共同訳聖書
◎ 旧約聖書 詩編31編2~6節(861頁)
31:2 主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく/恵みの御業によってわたしを助けてください。
31:3 あなたの耳をわたしに傾け/急いでわたしを救い出してください。砦の岩、城塞となってお救いください。
31:4 あなたはわたしの大岩、わたしの砦。御名にふさわしく、わたしを守り導き
31:5 隠された網に落ちたわたしを引き出してください。あなたはわたしの砦。
31:6 まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。
◎ 新約聖書 ルカによる福音書23章39~47節(158頁)
23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
◆イエスの死
23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
23:47 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。
讃美歌 1954年版讃美歌  542 5 70 262
とずれ(説教題)「十字架への道」
説教者 日本基督教団荻窪清水教会 梅津裕美牧師

◎交換講壇の礼拝でしたのでおとずれ(説教)の掲載はありません。
◎ホームページをご覧くださった皆様へ
▲ 桜が満開です。春を楽しんでおられますでしょうか。今週も神様にまもられますようにお祈り申し上げます。⛪⛪

◎3月22日礼拝 
聖 書 新共同訳聖書
◎ 旧約聖書 イザヤ書53章1~4節(1149頁)
53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。
◎ 新約聖書 マタイによる福音書26章1~2節(51頁)
26:1 イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。
26:2 「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」
讃美歌 1954年版讃美歌  541 4 68 140
とずれ(説教題)「十字架の予告」
説教者 山本昭夫牧師
 はじめに
▲ 私達は、今レント(受難節)の時を過ごしています。今年は2月18日水曜日(灰の水曜日)から始まりました。そして来週はレント最後のひと週である受難週になります。3月29日は受難週礼拝です。今年の受難週礼拝は、荻窪清水教会との交換講壇の日になっています。
 そこで本日の礼拝と来週の受難週礼拝は、主イエスの十字架についての箇所から聴いてまいります。

◎ 十字架の予告
▲ 本日の箇所は、最後の晩餐の直前に主イエスが「人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」と言われた箇所です。
 これまでも主イエスは、度々ご自分の十字架について言及しておられます。最初に言われたのはマタイによる福音書16・21です。

◆イエス、死と復活を予告する
16:21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
 この直前にペトロは、主イエスに「16:16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。」と記されています。即ち「メシア、生ける神の子」である主イエスは、「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺さる」のです。
 ここを私訳すると「主イエスは、殺されることを弟子達に教え始められた。」です。この「殺される」は、継続の文法の受動態です。一般的に継続の文法は、出来事、行動が継続することを表します。しかしこの「殺される」が継続の文法であるのは、[主イエスは、殺されることになっている]ことを表す継続の文法です。継続の文法は、人の性格、属性を表すこともあります。主イエスは、16・21で殺される救い主メシアであると言われたのです。
 殺される救い主メシアなど想像出来ないペトロは、「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』
」と言いました。
▲ 主イエスは、この16・21以降繰り返しご自分の十字架について言及されています。

①17:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。
②17:22 一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。
③20:17 イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。20:18 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、20:19 異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。
 そして十字架について最後に言われたのが本日の箇所になります。
本日の箇所で主イエスは、「人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」と言われています。
 先ほど16・21の、「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺さる」の「殺さる」が継続の文法の受動態であると申しました。「十字架につけられるため」も継続の文法の受動態です。
▲ 16・21では「殺さる」ですが、20・19と本日の箇所では「十字架につける、つけられる」となっています。殺されるのが如何なる手段によるものかが明確になって来ています。
 即ち主イエスが殺されるにも幾つかの手段があります。暗殺のような手段もあれば、律法違反による石打の刑もあります。十字架の刑ということになれば最高法院で決議をしてローマ総督の許可がなければ出来ません。
 それはローマ総督を巻き込んだ最も公の死刑ということになります。神の御子主イエスは、最も公の正式な手続きを経て死刑に処されることになります。それは全ての人が主イエスの死刑に関わっていることになります。
▲ 主イエスは、「人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」と言われれています。「引き渡される(パラディドーミ)」には[手渡す、引き渡す]の意味があります。
 この接頭辞の「パラ」には[傍らに、離れる、背く]の意味があります。この言葉(パラスディドーミ)は、この後に集中して出て来ます。
26:15 「あの男をあなたたちに引き渡せば(パラディドーミ)、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。
26:21 一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろう(パラディドーミ、引き渡そうと)としている。」
26:23 イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る(パラディドーミ、引き渡す)。
26:24 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切る(パラディドーミ、引き渡す)その者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
26:25 イエスを裏切ろうとしていた(パラディドーミ、引き渡すそうとしていた)ユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」
▲ イスカリオテのユダは、主イエスを祭司長達に引き渡そうとしました。この[引き渡す]の意味を持つ言葉(パラディドーミ)の「パラ」には[傍らに、離れる、背く]の意味があると上述しました。つまりこの「パラ」には、[傍らに]と[離れる、背く]という相反する意味があるのです。
 イスカリオテのユダは、主イエスから[離れる、背く]人でした。主イエスから離れ、背いたユダは、主イエスの敵対者である祭司長達に主イエスを「ディドーミ(与える)」ことをしたのです。故に上記の新共同訳聖書では、主イエスはユダのことを「人の子を裏切るその者」と言われています。
▲ 主イエスは、父なる神に対して[傍らに]の「パラ」のお方でした。ユダは、主イエスを祭司長達に「ディドーミ(与える)」者であったのに対して主イエスは、「ディドーミ(委ねる、任せる)」お方でした。
 故に主イエスは、ご自身のパラディドーミについてマタイによる福音書で次のように言われています。

11:27 すべてのことは、父からわたしに任せられています(パラディドーミ)。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
 ユダは、主イエスに背いて祭司長達に主イエスを与えました。しかし主イエスは、父なる神の傍らにおられて父なる神にご自分を委ねられました。それは、十字架に死ぬことによって全ての人の神に対する罪、不義を贖うことです。
 主イエスは、その務めについて「すべてのことは、父からわたしに任せられています(委ねられています)」と言われます。そして主イエスは、ご自分の十字架での死によって全ての人の罪を贖ってくださいました。そして全ての人が地上の人生の先で御国での永遠の祝福に与れるようにしてくださいました。
▲ この神の御子主イエスの十字架の死が父なる神の傍らにいてご自身を委ねられた死であったことを人は、理解出来ません。
 本日の旧約聖書イザヤ書53章は、主イエスの十字架の死についての預言であると考えられています。

53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。
▲ 主イエスの十字架死によって神に対する罪を贖われた私達は、この御業に感謝と喜びをもって主イエスが父なる神にご自身を委ねられたように私達は、神に自分を委ねる生き方をするのです。
 自分を神に委ねる(パラディドーミ)ことについて使徒言行録にはパウロについて次のように記されています。
14:25 ペルゲで御言葉を語った後、アタリアに下り、14:26 そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて(パラディドーミ)送り出された所である。
 パウロの伝道者としての歩みは、神の傍らに居続けてて神に自分を委ねる、任す、託す生き方でした。その生き方によって神から祝福されて伝道者として多くの人を主イエスを信じる者に変え、教会を建てるという大きな働きをすることが出来ました。
◎ むすび
▲ レントが終わりに近づいてまいりました。私達には2つの生き方があります。
 ひとつはイスカリオテのユダの生き方。彼は、主イエスの傍らにいることを拒み、祭司長達に主イエスを与えてしまいました。彼の生き方は、神に背を向けて離れる生き方です。しかし彼の最期な哀れでした。
 もうひとつは神の傍らにいて自身を神に委ねる、任せる生き方です。主イエスがその生き方をされました。その生き方の先には十字架の死による全ての人の罪の贖いでした。
 パウロをはじめとする使徒達は、神に我が身を委ねて人生を歩みました。教会二千年の歴史の中で信仰者は、教会に繋がり自分の人生を神に委ねて(任せて)歩みました。
 私達も主イエスに倣って、教会の信仰の先達に倣って主イエスのみが私の救い主メシアであると信じ、地上の人生の先で御国での永遠の祝福に与れることを信じて歩んでまいります。

◎ホームページをご覧くださった皆様へ
▲ ソメイヨシノではありませんが桜が咲き始めました。春です。レントの中の皆様の歩みに神様のお守りをお祈り申し上げます。 ⛪⛪