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〒165-0032 東京都中野区鷺宮3-29-4 

日本キリスト教団 千歳教会(ちとせ きょうかい)のホームページにようこそ!


 日本で最初の教会が建てられたのは、1872年(明治5年)の日本基督横浜海岸教会(今日の日本基督教会横浜海岸教会)です。それから150年余り経った今日では、日本中に数多く教会があります。私たちの日本基督教団千歳教会もその一つです。
 教会と言いますと十字架のある建物のことを思われるのではないでしょうか。しかし、教会は、[神様によってイエス・キリストを救い主と信じるように呼び出された人の集まり]です。
 聖書の神様は、愛の神様です。愛によって人に命を与えて下さいました。愛によって人の救いの為に御子イエス・キリストが十字架について下さいました。愛によって人の失敗を赦して下さっています。愛によって人に天の国での永遠の命を約束して下さっています。愛によって人生を歩んでいる人を守り、導いて下さっています。
 聖書の神様は、日曜日毎に人を教会へ集めて下さいます。人は、礼拝で神様の愛を聴くと嬉しくなります。平安になります。生きる力が出ます。
 神様は、あなたを教会へ招いておられます。西武新宿駅より鷺ノ宮駅まで急行で二駅12分、駅北口から徒歩4分の交通至便なところにあります。心よりお待ちしています。

心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
(マタイによる福音書5章3~9節)

本日の教会学校(幼児~中学生の礼拝)
2026年2月8日(日) 午前9:45~10:10
☆皆様が安心して礼拝出席出来るようにコロナ対策をしています。
☆親御さまも御子さまとご一緒に出席出来ます。 
☆大人も出席出来ます。
☆下記の「★礼拝について」もお読みください


本日の礼拝(基本高校生以上の礼拝)
2026年2月8日(日) 午前10:30~11:30
★礼拝について
☆1月11日でクリスマスの礼拝が終わりました。1月18日よりローマの信徒への手紙に戻りました。
☆新しい方の出席を歓迎致します。お待ちしています。(^_^)
☆どなたでもご自由に出席出来ます。
☆高校生以下の方でも出席できます。
☆母子室がありますので小さいお子様連れでも安心です。
☆聖書と讃美歌は、教会にあります。
☆礼拝の中で献金がありますが、する、しない、金額は自由です。
☆基本的に毎月第一日曜日に聖餐礼を致します。
罪の赦しと御国での永遠の祝福の印である主イエスの御体を表すパン
🥐と血潮を表ぶどうジュース🍷を頂きます。洗礼を受けておられる方、または幼児洗礼を受けて信仰告白をされた方は何処の教会の方でも頂けます。
聖 書 新共同訳書
◎ 旧約聖書 ゼカリヤ書14章9節(1494頁)
14:9 主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ/その御名は唯一の御名となる。
◎ 新約聖書 ローマの信徒への手紙9章30~32節(287頁)
9:30 では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。
9:31 しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。
9:32 なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。 
讃美歌 1954年版讃美歌  543 54 166 207 269
とずれ(説教題)「神が私たちに求めること」
説教者 山本昭夫牧師
 はじめに
▲ パウロは、9章から「神の選び」を語りました。このことについて私達は、ずっと聴き続けてまいりました。
 神の選びとは、[神の祝福を与える選び]です。神は、創世記12・2でアブラハムにこの神の祝福について言われました。

12:1 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。12:2 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。12:3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」
 この神の祝福は、アブラハムから子ども、子孫によって連綿として受け継がれて来ました。しかし単に血によって引き継がれたのではありません。神の選びによって引き継がれてまいりました。
 アブラハムの子どもイサクにこの約束が引き継がれたのは、単に血の繋がりで引き継がれたのではなく神によってイサクに引き継がれたことを聴いて来ました。イサクの子であるヤコブに引き継がれる時も同様でした。
 そしてこのアブラハムへの神の約束は、主イエスによって実現致しました。主イエスは、この約束の成就者です。主イエスは、十字架の死、復活、昇天によって全ての人に[罪の赦しと御国での永遠の命と永遠の平安]を与えられた救い主メシアです。つまり神がアブラハムになされた祝福とは、[罪の赦しと御国での永遠の命と永遠の平安]なのです。
▲ パウロは、西暦55年頃のローマの教会の人々に宛ててこの手紙を書いています。
 ローマの教会の人々にパウロは、「9:21 焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。」と言いました。そして結論として「9:24 神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。」と言いました。
 「貴いこと(チメー)に用いる器」とは、[神の栄光を帰する人]のことです。「貴くない(アティミヤ)ことに用いる器」とは、その逆の人のことです。神に栄光を帰さない人です。このアティミヤには[恥、恥すべきこと]の意味があります。
▲ パウロは、9・24のとおりに神は、「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。」と言います。即ち全ての人を[神の栄光を帰する人]に召し出してくださったと言います。「召し出して(カレオー)」は、教会(エクレシア)という言葉の語源です。
 ローマの教会にいるユダヤ人と異邦人は、「貴いことに用いる器」、即ち[神の栄光を帰する人]として神に召された人達であるのだと、パウロは言います。
▲ そして続けてパウロは、9・25から先週の個所である9・29までに旧約聖書の預言者であるホセア書とイザヤ書の言葉を引用しています。
 パウロは、ローマの教会の人達がホセア書とイザヤ書で言われているような人達であるのだと言っています。
 ホセア書で「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、/愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。」と言われている預言の言葉をパウロは、ローマの教会にいるユダヤ人と異邦人に当てはめています。
 ユダヤ人と異邦人に共通しているのは、神に対して罪があることです。神に創られた者として相応しい生き方ができていません。それは出エジプト記20章に記されている十戒を守れていないことです。
 その彼らは、神から見れば「自分(神)の民でない者」です。しかし神は、その彼らを「わたしの民と呼び」と言われます。「自分(神)の民でない者」を「わたし(神)の民と呼び」になるのは、主イエスによって彼らの神への罪が神に赦されたからです。人は、神への罪のない者にされました。その為に主イエスは、十字架に死に復活され昇天されたのです。
▲ 次にパウロは、イザヤ書を引用して9・29で「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、/わたしたちはソドムのようになり、/ゴモラのようにされたであろう。」と言います。「子孫を残されなかったら」の「子孫(単数形)」とは主イエスのことです。
 先ほども申し上げましたように主イエスは、神がアブラハムに約束された祝福の成就者です。その成就者として神は、主イエスを「残された」のです。
 先週申し上げましたが「残されなかったら」の「残す(エグカタレイポー)」には[残す]の意味の他に[見捨てる]の意味があります。
 主イエスは、十字架につけられて息を引き取られる前にマタイによる福音書27章で次のように叫ばれました。

27:46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
 故にパウロは、イザヤ書を引用しながら「残す」という言葉にエグカタレイポーを充てることによって[主イエスが十字架で父なる神に見捨てられるように死ぬことによって]、人の神への罪が赦されて「ソドムやゴモラのように滅ぼされることがなくなった」と言っているのです。

◎ 神が私たちに求めること
▲ 本日の箇所でパウロは、異邦人が神に招かれていることとユダヤ人の多くが教会に招かれていない現実について語っています。

9:30 では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。
 「では、どういうことになるのか。」を私訳すると「私達は何と言おうか」です。パウロが「私達」と言っているのは、ローマの教会の人々を念頭に置いているからです。
▲ 次の「義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。」を私訳すると「(神の)義を熱心に追い求めていない(ディオーコー現在形)異邦人(複数形)は、(神の)義に到達した(単数形の継続の文法)。」です。
 異邦人は、現在形で言っているように神の義(聖書の神に対して正しい者であること)を熱心に求めていません。異邦人は、聖書の世界と無関係の世界に生きています。
 パウロは、異邦人が「(神の)義を熱心に追い求めていない(現在形)」と言います。ローマの教会の外にいる異邦人は、熱心に求めていない現実があります。パウロは、そのような現実を異邦人を複数形と現在形で表しています。
 しかしその異邦人の中で「(神の)義に到達した(単数形の継続の文法)。」と言います。この「到達した」(カタラムバノー)には、[掴む]の意味もあります。
▲ 但し異邦人は、神の義を自分の力で掴んだのではありません。もし自分の力で掴んだのであればいつか手放す可能性もあり得ます。しかしパウロは、「(神の)義に到達した(単数形の継続の文法)。」と継続の文法で言っています。即ち異邦人は到達した神の義を異邦人は、二度と手放すことはない、と言っています。
 何故そのように言えるのかと申しますと異邦人が自力で神の義に到達したからではないからです。神が異邦人一人一人を捕らえてくださったからです。それが神の選びです。
▲ 神は、異邦人に神の義を与えてくださいました。主イエスが十字架に死ぬことによって義を与えてくださいました。主イエスの十字架の死は、取り消すことがない神の御業です。
 故にパウロは、異邦人が神の義に(神によって)到達したのであり、神の義が異邦人から取り上げられることはないのだと言います。神の義を与えられた異邦人には[御国での永遠の命と永遠の平安]が約束されていることを表す為にパウロは、「(神の)義に到達した(単数形の継続の文法)。」と継続の文法で言っています。
▲ パウロは、この根拠として異邦人が「義、しかも信仰による義を得ました。」と言います。そして異邦人が到達した神の義を説明します。
 これを私訳すると「信仰からの(出る、生じる)義」です。パウロは、異邦人が神の義に到達したのは主イエスを救い主メシアと信じる信仰によって神から与えられる義であると言います。
▲ 次にパウロは、イスラエル(ユダヤ人)について言います。
 
9:31 しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。
 私訳すると「しかしイスラエル人/義の法を熱心に追い求めている(ディオーコー現在形)/法の中に到達しなかった(継続の文法)」です。 パウロは、同じ言葉(ディオーコー)を使ってユダヤ人(イスラエル人)と異邦人の比較をしています。
 ユダヤ人は、異邦人と対照的に神の義を熱心に追い求めていました。「義の法」とは、十戒のことです。ユダヤ人は、613もの規則を守って十戒を守ろうとしました。そして神の義を努力で掴もうとしました。即ち規則を厳守することによって神の御目に正しい者であろうとしたのです。
 しかしパウロは、そのユダヤ人は、「法の中に到達しなかった(継続の文法)」と言います。継続の文法ですのでユダヤ人が613の規則を自分達は厳守したと思っていても「(神の義の)法の中に(生涯)到達しなかった」のです。ユダヤ人は、努力しても神の義の法である十戒の中へ入って行くことは出来なかったのです。ユダヤ人の努力は徒労の泡に終わるのです。継続の文法ですからユダヤ人は、決して神の義の中へ入って行くことは出来ません。

◎ むすび   
▲ パウロは、ホセア書とイザヤ書を引用して罪ある者を神が教会へと呼んでくださっていることを語ります。そして人の努力ではなく唯主イエスによってのみ人は、罪が赦され神に対して義とされることを語ります。
 人は、生きる為に努力します。しかし努力では努力で到達出来ないものがあります。神の領域の中へは人がどんなに努力しても到達出来ません。人は、唯神から恵みとして頂く他にないのです。
 [罪の赦しと御国での永遠の命と永遠の平安]は、主イエスによって成し遂げられた神の御業です。神の領域にある恵みです。私達は、主イエスを救い主メシアと信じてその恵みに与るのです。そして礼拝で主イエスを救い主メシアだと言い表します。礼拝で神に栄光を帰します。

◎ホームページをご覧くださった皆様へ
▲ びっくりの積雪です。教会にとって日曜日の積雪は残念ですが多くの通勤者にとっては幸いであったかと思います。今週も皆様に神様のお守り申し上げます。⛪⛪


★過去の説教(おとずれ) 
☆過去2回の説教(おとずれ)が載せてあります。

◎2月1日礼拝 
讃美歌 1954年版讃美歌  542 53 164 207 507
とずれ(説教題)「救われる人」
説教者 山本昭夫牧師
 はじめに
▲パウロがこのローマの信徒への手紙を書いたのは西暦55年頃です。パウロは、未だローマの教会に行ったことはありません。しかしローマから来た人達を知っていましたのである程度の教会の事情を知っていた筈です。そしてこの手紙を書きました。
 パウロは、9章から神の選びについて語っています。神の選びとは、神の祝福を受け継ぐ人に選ばれるということです。神は、アブラハムに約束された永遠の祝福をアブラハムの子どもと子孫に繋がせられました。
 しかし血によって約束が繋がれるのではありません。神が主体的に約束を繋ぐ者を選ばれたのです。そしてこの祝福の約束は、神の御子主イエスによって成就されました。
 主イエスは、この約束を成就する為にクリスマスの夜にお生まれになりやがて十字架によって生涯を終えられたのです。更に十字架の死から三日目に復活され復活から40日後に父なる神の御許へ昇られました。
▲ パウロは、先週の箇所で旧約聖書時代の北イスラエル王国の預言者であるホセアの言葉を引用して語りました。 

9:25 ホセアの書にも、次のように述べられています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、/愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。9:26 『あなたたちは、わたしの民ではない』/と言われたその場所で、/彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」
 ホセアは、北イスラエル王国がアッシリアからの侵略を防ぐ為に大国のエジプトに頼ろうとしたことを神を信頼しない神への罪、神への冒涜だと断罪しました。
 しかし神は、ホセアを通して人々への希望を語られました。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、/愛されなかった者を愛された者と呼ぶ」のだと。ローマの教会には大きく分けてユダヤ人と異邦人がいました。ユダヤ人は、聖書の唯一無二神、万物をお創りになった神、全ての人に命を与えられた神を知っています。異邦人は、その神を知りません。
▲ しかし両者は、神の御子主イエスを知りません。自分の救い主メシアと信じていませんでした。その意味で両者は、神から見れば「自分の民でない者」なのです。神への罪を持っている者です。
 しかし神は、御子主イエスの十字架、復活、昇天によって神への罪を赦されました。そして「わたしの民と呼び、/愛されなかった者を愛された者と呼ぶ」と言われます。
 神は、全ての人を呼ばれます。その為に神は、伝道者をお立てなりました。そして主イエスを救い主メシアと信じた人達の集まりである教会をお建てになられました。
 このようにパウロは、先週の箇所で言いました。
 
◎ 救われる人
▲ パウロは、本日の箇所で今度はイザヤ書を引用して語ります。先週の9・25~26ではホセア書を引用しました。本日はイザヤ書を引用しています。
 9・27~28は、イザヤ書10・22~23の引用です。9・29は、イザヤ書1・9の引用です。
 パウロは、イザヤ書を引用するにあたり「9:27 また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。」と言います。「叫んでいる(クラゾー)」は、現在形です。
▲ パウロは、ホセア書を引用した時に「9:25 ホセアの書にも、次のように述べられています。」と言っていますが私訳すると「ホセア書の中で彼(神)は言っている」です。「言っている」は現在形です。
 パウロは、紀元前750年頃にホセアとイザヤを通して語った神が西暦55年のローマの教会で語っていると言っているのです。神は、紀元前750頃に人々に語った言葉がパウロの時代にも同じことを語っておられるのです。そして神は、今日の私達にも同じことを語られています。教会の礼拝で神の御言葉として語られています。
▲ 9・27「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。」「救われる(ソーゾー)」は未来形です。預言者イザヤは、ホセアと同じく紀元前750年頃の預言者です。
 イザヤは、アッシリアによって滅んでいくことになる北イスラエル王国について語ります。
 北イスラエル王国についてイザヤは、「イスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても」と言います。これは、王国の繁栄を言っています。繁栄し人口が増えて行く北イスラエル王国。しかしその栄華もアッシリアによって終わります。けれどもイザヤは、「残りの者が救われる(未来形)」と言います。北イスラエル王国の人々は、神に信頼しなかった故に滅びる。しかし神は、人々が神によって「救われる(ソーゾー)」と未来形で言われます。
▲ パウロは、この「残りの者が救われる(未来形)」をローマの教会で起こっている出来事として考えています。
 ローマの教会には大きく分けてユダヤ人と異邦人がいます。両者は、神の御目からすれば北イスラエル王国の人々のような者達です。
 確かにユダヤ人は、聖書の神を知っていました。礼拝をしていました。しかし主イエスを救い主メシアと信じていませんでした。神の御子主イエスを十字架につけたのは、ユダヤ人です。彼らは、神に対して大変な大罪を犯しました。紀元前750年頃の北イスラエル王国の人々よりもっと重い罪を犯したのです。
 異邦人は、聖書の神を知りませんでした。知らなかったから罪がないということになりません。
▲ そのようなユダヤ人と異邦人が主イエスを救い主メシアと信じてローマの教会に繋がっていることは、主イエスを信じなかった、知らなかった両者、永遠の死の世界に落ちて行く者達であった両者が今は、主イエスによって御国での永遠の命と永遠の平安が約束されているのです。
 パウロは、それはイザヤの「残りの者が救われる(未来形)」の預言の成就であると言います。パウロは、イザヤが預言をしてから約800年後にローマの教会でこの預言が成就したのだと言います。
 ローマの教会の中には当時の北イスラエル王国の土地からの出身者がいたかもしれません。そうであるならその人達にとっては正にイザヤの預言が成就したと言えます。
 今日の私達は、イザヤの預言から2750年が経っています。私達にも主イエスを救い主メシアと信じる信仰が与えられました。人生の先には永遠の死の世界がある者が主イエスによって御国での永遠の命と永遠の平安が約束された者となりました。私達も「残りの者が救われる(未来形)」とイザヤが預言した者の一人なのです。
▲ パウロは、9・29で次のように言います。

9:29 それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、/わたしたちはソドムのようになり、/ゴモラのようにされたであろう。」
 「イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。」の「告げていた(プロレゴー)」は完了形です。パウロは、先ほどの「叫んでいます」は未来形で言いました。それは、イザヤの預言が時代を超えて人々に成就する為にでした。
 パウロは、今度は完了形で言います。何故完了形なのでしょうか。それは主イエスによって完了したからです。
 「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら」の「子孫(スペルマ)」とは誰でしょうか。これは単数形です。この子孫とは神の御子主イエスです。創世記12章で神は、アブラハムに永遠の祝福を約束されました。園氏約束は、神の選びによって時代を超えて連綿として受け継がれました。そしてこの約束を成就したのが神の御子主イエスです。父なる神は、この約束の成就者としてアブラハムの「子孫」である主イエスを「残された」のです。
▲ ここで「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら」が正しい訳であるか、という問題になります。新共同訳聖書も私達か35年くらい前まで使っていた口語訳聖書も「子孫を残されなかったら」と訳しています。
 この「残す(エグカタレイポー)」には[残す]の意味の他に[見捨てる]の意味もあります。[見捨てる]の意味で使われているのは、十字架の主イエスの言葉です。マタイによる福音書で主イエスは、次のように言われました。

27:46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか(エグカタレイポー)」という意味である。
 主イエスは、十字架でこのように叫ばれたのです。主イエスは、何故このように「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのかはなかなか難しいのですが、兎に角主イエスは「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言われました。
▲ 「残す(エグカタレイポー)」の言葉が[残す]を意味すると理解すると、「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら」を意訳的に私訳すると「万軍の主が私達にアブラハムの約束の成就者として主イエスを残されなかったら」となります。そうでなければ私達は、永遠の死の中へ滅びるのだ、とパウロは、イザヤ書を引用して言っていることになります。
 もう一つの解釈として「残す(エグカタレイポー)」の言葉が[見捨てる]を意味すると理解すると、「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら」を意訳的に私訳すると「万軍の主が私達にアブラハムの約束の成就者として主イエスが十字架で叫ばれたように父なる神に見捨てられなかったらなかったら」となります。

◎ むすび
▲ パウロは、先週の箇所でホセア書を引用して「自分の民でない者をわたしの民と呼び、/愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。」と神に罪を犯した者への神の愛を語りました。
 そして本日の箇所ではイザヤ書を引用して神の御子主イエスが十字架で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた程に神は私達を愛し、御子主イエスの叫びによって私達の罪を贖ってくださった。それによって「わたしたちは(旧約聖書の町である)ソドムのようになり、/ゴモラのように」滅ぼされることがなかったと言っています。
 私達は、主イエスを私の救い主メシアと信じ、御子を十字架につけて私達の神に対する罪を贖われた神を喜び、感謝してまいります。

◎ホームページをご覧くださった皆様へ
▲ 2月になりました。もうすぐ立春です。春までもう少しです。今週も神様のお守りをお祈り申し上げます。日本の政治が人々を幸せにする方向へ向かうように祈ります。次週は選挙です。⛪⛪ 

◎1月25日礼拝
 
聖 書 新共同訳書
◎ 旧約聖書 ホセア書2章1節(1403頁)
◆イスラエルの回復
2:1 イスラエルの人々は、その数を増し/海の砂のようになり/量ることも、数えることもできなくなる。彼らは/「あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)」と/言われるかわりに/「生ける神の子ら」と言われるようになる。
◎ 新約聖書 ローマの信徒への手紙9章25~26節(287頁)
9:25 ホセアの書にも、次のように述べられています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、/愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
9:26 『あなたたちは、わたしの民ではない』/と言われたその場所で、/彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」
讃美歌 1954年版讃美歌  541 52 162 525
とずれ(説教題)「生きて働かれる神」
説教者 山本昭夫牧師
 はじめに
▲ 先週から再びローマの信徒への手紙より約ひと月半振りに御言葉を聴き始めました。
 先週の箇所は9・24でした。

9:24 神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。
 パウロは、「わたしたち」と言います。「わたしたち」とは、ローマの教会の人達のことです。或いは[全ての人]と言っても宜しいと思います。パウロは、神が罪の世界であるこの世の中にいる人を教会の中へと「召し出してくださいました。」と言います。
 ローマの教会にはユダヤ人も居ましたし異邦人も居ました。この人達は、神によって教会へと召し出さたのです。神は、ユダヤ人も異邦人も教会へ召し出して創世記2章で神がアブラハムに言われた永遠の祝福の約束に与る者としてくださいました。
 これは画期的なことです。何故ならユダヤ人は、自分達だけがアブラハムの末裔でありこの約束に与る者であると考えていたからです。次に異邦人、この人達は、聖書の神を知らないで育った人達です。この約束など全く関心のない人達でした。
 ユダヤ人は、旧約聖書の出エジプト記20章に記されている十戒を厳格に守る為に613もの規則を作って規則に縛られた生活をしていました。しかしそれでも神の御目には完全に喜ばれる人になることが出来ませんでした。異邦人は、聖書の神に喜ばれる生き方など全く考えたこともない人達でした。
▲ この二人の人達、即ちユダヤ人と異邦人のどちらも神がアブラハムに言われた永遠の祝福に与るに相応しい者ではありませんでした。
 そこで神の御子主イエスは、神がアブラハムに言われたこの約束の成就者としてクリスマスの夜に馬小屋にお生まれになり成人されてから約3~4年の公生涯と呼ばれている活動をして神の国を宣べ伝えられました。
 最期は十字架に死なれて33、34歳の地上の生涯を終えられました。死なれた3日目に復活なされました。その後に父なる神の御許へと昇られました。
 この一連の主イエスの出来事によって全ての人は、[神に対する罪が赦され、地上の人生を終えた後には御国での永遠の命と永遠の平安に与る]ことが出来るようになったのです。
▲ パウロは、ユダヤ人も異邦人も「召し出してくださいました。」と言います。何処へ召し出すのかと申しますと教会へ、です。ユダヤ人も異邦人も自分達が神の約束に与るのは、教会で十字架、復活、昇天の主イエスによることについての御言葉を聴き、主イエスを自分の救い主メシアと信じる信仰を与えられるからです。そして人は、神の教会に繋がって毎週礼拝を守り、主イエスが救い主メシアである御言葉を聴くのです。そして神を喜び神に感謝する人生を歩むのです。

◎ 生きて働かれる神
▲ そのように9・24で語ったパウロは、今日の9・25~26で旧約聖書のホセア書を引用して次のように言います。

9:25 ホセアの書にも、次のように述べられています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、/愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
9:26 『あなたたちは、わたしの民ではない』/と言われたその場所で、/彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」
 「ホセアの書にも、次のように述べられています。」これを私訳すると「またホセア書の中で彼(神)は、言っている(現在形)」です。パウロは、「彼は言っている」と言います。もし預言者ホセアであるなら現在形にはなりません。過去形になります。しかし現在形ですから[今も神が言っておられる]となります。
 即ちパウロは、ホセア書を引用しながら今も神は、ローマの教会の礼拝で語っておられると言っていることになります。
▲ では神は、ホセア書で何を語られ、そして今もローマの教会で語られているのか、ということになります。
 その前にこの預言者ホセアについて述べたいと思います。
 ホセアは、北イスラエル王国の預言者です。ダビデによって統一されたアブラハムの血を継ぐ12部族のうち10部族は北イスラエル王国の部族でした。この北イスラエル王国を占領して支配したのがアッシリアという国です。この国はメソポタミア地方の国です。遥々とパレスチナ地方にまで遠征して来ました。
 預言者ホセアは、紀元前750年~730年頃の北イスラエル王国の預言者です。南のユダ王国にはイザヤ、ミカと言った預言者がいました。イザヤが主イエスがお生まれになることを預言した頃に北イスラエル王国ではホセアが預言をしていました。
 預言者ホセアは、厳しい現実を預言します。

「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、/愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。9:26 『あなたたちは、わたしの民ではない』/と言われたその場所で、/彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」
▲ 神は、アブラハムの子孫である北イスラエル王国の人々に対して「自分の民でない者」と言います。何故神は、このように北イスラエル王国の人々を見捨てるような発言をされたのでしょうか。それは北イスラエル王国が正にアッシリアによって滅ぼされようとしているからです。
 北イスラエル王国は、このホセアの預言の後の紀元前722年に滅ぼされます。その直前にホセアは、子の預言をしています。
 9・25は、ホセア書2・25の言葉です。9・26はホセア書2・1の言葉です。パウロは、ホセア書では別々のところの言葉をこの9・25、26で繋げて言っています。
 神が預言者ホセアによってこれ程の厳しい言葉を言っているのは、北イスラエル王国が神に信頼せずにアッシリアに対抗しようとしてエジプトに頼ったからです。神を信頼して神を礼拝しなかったのです。その結果が北イスラエル王国の滅亡でした。北イスラエル王国は、神を信頼しないで軍事力を持つエジプトに頼ったのです。それは神に対する罪を犯したということになります。
▲ しかし神は、ホセアによって北イスラエル王国の人々への希望の言葉を語ります。
 9・25の「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、/愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。」を私訳すると「私(神)は呼ぶ/私の民でない者を私の民と。愛されていない女(完了受動態現在分詞の女性形)を愛された女と(呼ぶ)」です。
 「呼ぶ」は未来形です。この預言は、まだ起こっておらず、これから後に起こることです。何故女性形なのかと申しますと神と人間の関係は、神と女性の関係として言われることがあるからです。人は、神を信頼し、從う存在として女性形が用いられます。
 「呼ぶ」が未来形であるのは、これから神が北イスラエル王国の人々を呼ぶからです。その人々は、神に愛されている(完了受動態)女性だと言います。神に頼らずにエジプトに助けを求めた人々は、神に愛されていなかったけれども愛されている者となり、その人々を神は、この先で呼ぶのです。
▲ ここには転換があります。神を信頼しない罪故に神に愛されていなかった人が、神に愛される人になるという転換です。そして神は、その人を呼ぶのです。
 パウロは、ローマの教会にいるユダヤ人と異邦人にこのホセア書の言葉を重ねています。つまりユダヤ人も異邦人も神に罪を犯した者達、即ち神に信頼せずに生きて来た者達であるのです。ユダヤ人は、一生懸命に規則を守って罪を犯さないように努めました。異邦人は、聖書の神を信じていませんでした。
 神から見るとユダヤ人も異邦人も等しく神に対して罪人なのです。神の民ではないのです。神に愛されていない者達なのです。罪故にです。
 しかし彼らに対して神は、態度を転換されます。御子主イエスによって彼らを神の民とされます。彼らを神に愛された者とされます。主イエスによって神は、ユダヤ人も異邦人も神の民とされます。神に愛された者とされます。主イエスの十字架の死によって父なる神は、ユダヤ人と異邦人への愛をお示しになられました。
▲ パウロは、ホセアの言葉を用いて聖書の神は、「生ける神」でありユダヤ人と異邦人は「「生ける神の子ら」と言われる」と言います。「生ける」は現在形分詞です。
 神は、旧約聖書の時代からパウロの時代も人々に対して生きて働かれる神です。今日も全ての人に対して生きて働かれる神です。何よりも教会で御言葉を語られ続ける神です。そしてその御言葉で人々に対して私の民、神に愛された人と言われます。

◎ むすび
▲ ホセアが神を信頼しない人々に対して厳しい預言を語り、その後に救いの預言を語ったその時代に南のユダ王国の預言であるイザヤは、主イエスの誕生を告げています。

7:14 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。
 主イエスによって人は、神の民とされ、神に愛されている者とされるのです。ホセアの預言は、紀元前730年頃の預言です。その預言が今日でも教会の中で起こり続けています。私達は、神の民、神に愛されている人であり続けています。またそのような新しい人が神によって与えられます。主イエスを救い主メシアと信じる人が起こされます。

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