日本キリスト教団 千歳教会(ちとせ きょうかい)のホームページにようこそ!
| 日本で最初の教会が建てられたのは、1872年(明治5年)の日本基督横浜海岸教会(今日の日本基督教会横浜海岸教会)です。それから150年余り経った今日では、日本中に数多く教会があります。私たちの日本基督教団千歳教会もその一つです。 教会と言いますと十字架のある建物のことを思われるのではないでしょうか。しかし、教会は、[神様によってイエス・キリストを救い主と信じるように呼び出された人の集まり]です。 聖書の神様は、愛の神様です。愛によって人に命を与えて下さいました。愛によって人の救いの為に御子イエス・キリストが十字架について下さいました。愛によって人の失敗を赦して下さっています。愛によって人に天の国での永遠の命を約束して下さっています。愛によって人生を歩んでいる人を守り、導いて下さっています。 聖書の神様は、日曜日毎に人を教会へ集めて下さいます。人は、礼拝で神様の愛を聴くと嬉しくなります。平安になります。生きる力が出ます。 神様は、あなたを教会へ招いておられます。西武新宿駅より鷺ノ宮駅まで急行で二駅12分、駅北口から徒歩4分の交通至便なところにあります。心よりお待ちしています。 |
| 心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。 (マタイによる福音書5章3~9節) |
★本日の教会学校(幼児~中学生の礼拝)
2026年3月29日(日) 午前9:45~10:10
本日の礼拝は10時30分からの
大人の礼拝と合同礼拝です。
☆皆様が安心して礼拝出席出来るようにコロナ対策をしています。
☆親御さまも御子さまとご一緒に出席出来ます。
☆大人も出席出来ます。
☆下記の「★礼拝について」もお読みください。
★本日の礼拝(基本高校生以上の礼拝)
受難週礼拝&
荻窪清水教会との交換講壇礼拝
2026年3月29(日) 午前10:30~11:30
★礼拝について
☆1月11日でクリスマスの礼拝が終わりました。1月18日よりローマの信徒への手紙に戻りました。
☆新しい方の出席を歓迎致します。お待ちしています。(^_^)
☆どなたでもご自由に出席出来ます。
☆高校生以下の方でも出席できます。
☆母子室がありますので小さいお子様連れでも安心です。
☆聖書と讃美歌は、教会にあります。
☆礼拝の中で献金がありますが、する、しない、金額は自由です。
☆基本的に毎月第一日曜日に聖餐礼を致します。
罪の赦しと御国での永遠の祝福の印である主イエスの御体を表すパン🥐と血潮を表ぶどうジュース🍷を頂きます。洗礼を受けておられる方、または幼児洗礼を受けて信仰告白をされた方は何処の教会の方でも頂けます。
●聖 書 新共同訳書
◎ 旧約聖書 詩編31編2~6節(861頁)
31:2 主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく/恵みの御業によってわたしを助けてください。
31:3 あなたの耳をわたしに傾け/急いでわたしを救い出してください。砦の岩、城塞となってお救いください。
31:4 あなたはわたしの大岩、わたしの砦。御名にふさわしく、わたしを守り導き
31:5 隠された網に落ちたわたしを引き出してください。あなたはわたしの砦。
31:6 まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。
◎ 新約聖書 ルカによる福音書23章39~47節(158頁)
23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
◆イエスの死
23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
23:47 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。
●讃美歌 1954年版讃美歌 542 5 70 262
●おとずれ(説教題)「十字架の予告」
説教者 日本基督教団 荻窪清水教会 梅津裕美牧師
◎ はじめに
▲ 今週は荻窪清水教会との交換講壇ですので「おとずれ(説教)」の掲載はありません。
◎ホームページをご覧くださった皆様へ
▲ ⛪⛪
★過去の説教(おとずれ)
☆過去2回の説教(おとずれ)が載せてあります。
◎3月22日礼拝
●聖 書 新共同訳書
◎ 旧約聖書 イザヤ書53章1~4節(1149頁)
53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。
◎ 新約聖書 マタイによる福音書26章1~2節(51頁)
26:1 イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。
26:2 「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」
●讃美歌 1954年版讃美歌 541 4 68 140
●おとずれ(説教題)「十字架の予告」
説教者 山本昭夫牧師
◎ はじめに
▲ 私達は、今レント(受難節)の時を過ごしています。今年は2月18日水曜日(灰の水曜日)から始まりました。そして来週はレント最後のひと週である受難週になります。3月29日は受難週礼拝です。今年の受難週礼拝は、荻窪清水教会との交換講壇の日になっています。
そこで本日の礼拝と来週の受難週礼拝は、主イエスの十字架についての箇所から聴いてまいります。
◎ 十字架の予告
▲ 本日の箇所は、最後の晩餐の直前に主イエスが「人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」と言われた箇所です。
これまでも主イエスは、度々ご自分の十字架について言及しておられます。最初に言われたのはマタイによる福音書16・21です。
◆イエス、死と復活を予告する
16:21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
この直前にペトロは、主イエスに「16:16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。」と記されています。即ち「メシア、生ける神の子」である主イエスは、「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺さる」のです。
ここを私訳すると「主イエスは、殺されることを弟子達に教え始められた。」です。この「殺される」は、継続の文法の受動態です。一般的に継続の文法は、出来事、行動が継続することを表します。しかしこの「殺される」が継続の文法であるのは、[主イエスは、殺されることになっている]ことを表す継続の文法です。継続の文法は、人の性格、属性を表すこともあります。主イエスは、16・21で殺される救い主メシアであると言われたのです。
殺される救い主メシアなど想像出来ないペトロは、「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』
」と言いました。
▲ 主イエスは、この16・21以降繰り返しご自分の十字架について言及されています。
①17:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。
②17:22 一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。
③20:17 イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。20:18 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、20:19 異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。
そして十字架について最後に言われたのが本日の箇所になります。
本日の箇所で主イエスは、「人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」と言われています。
先ほど16・21の、「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺さる」の「殺さる」が継続の文法の受動態であると申しました。「十字架につけられるため」も継続の文法の受動態です。
▲ 16・21では「殺さる」ですが、20・19と本日の箇所では「十字架につける、つけられる」となっています。殺されるのが如何なる手段によるものかが明確になって来ています。
即ち主イエスが殺されるにも幾つかの手段があります。暗殺のような手段もあれば、律法違反による石打の刑もあります。十字架の刑ということになれば最高法院で決議をしてローマ総督の許可がなければ出来ません。
それはローマ総督を巻き込んだ最も公の死刑ということになります。神の御子主イエスは、最も公の正式な手続きを経て死刑に処されることになります。それは全ての人が主イエスの死刑に関わっていることになります。
▲ 主イエスは、「人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」と言われれています。「引き渡される(パラディドーミ)」には[手渡す、引き渡す]の意味があります。
この接頭辞の「パラ」には[傍らに、離れる、背く]の意味があります。この言葉(パラスディドーミ)は、この後に集中して出て来ます。
26:15 「あの男をあなたたちに引き渡せば(パラディドーミ)、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。
26:21 一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろう(パラディドーミ、引き渡そうと)としている。」
26:23 イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る(パラディドーミ、引き渡す)。
26:24 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切る(パラディドーミ、引き渡す)その者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
26:25 イエスを裏切ろうとしていた(パラディドーミ、引き渡すそうとしていた)ユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」
▲ イスカリオテのユダは、主イエスを祭司長達に引き渡そうとしました。この[引き渡す]の意味を持つ言葉(パラディドーミ)の「パラ」には[傍らに、離れる、背く]の意味があると上述しました。つまりこの「パラ」には、[傍らに]と[離れる、背く]という相反する意味があるのです。
イスカリオテのユダは、主イエスから[離れる、背く]人でした。主イエスから離れ、背いたユダは、主イエスの敵対者である祭司長達に主イエスを「ディドーミ(与える)」ことをしたのです。故に上記の新共同訳聖書では、主イエスはユダのことを「人の子を裏切るその者」と言われています。
▲ 主イエスは、父なる神に対して[傍らに]の「パラ」のお方でした。ユダは、主イエスを祭司長達に「ディドーミ(与える)」者であったのに対して主イエスは、「ディドーミ(委ねる、任せる)」お方でした。
故に主イエスは、ご自身のパラディドーミについてマタイによる福音書で次のように言われています。
11:27 すべてのことは、父からわたしに任せられています(パラディドーミ)。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
ユダは、主イエスに背いて祭司長達に主イエスを与えました。しかし主イエスは、父なる神の傍らにおられて父なる神にご自分を委ねられました。それは、十字架に死ぬことによって全ての人の神に対する罪、不義を贖うことです。
主イエスは、その務めについて「すべてのことは、父からわたしに任せられています(委ねられています)」と言われます。そして主イエスは、ご自分の十字架での死によって全ての人の罪を贖ってくださいました。そして全ての人が地上の人生の先で御国での永遠の祝福に与れるようにしてくださいました。
▲ この神の御子主イエスの十字架の死が父なる神の傍らにいてご自身を委ねられた死であったことを人は、理解出来ません。
本日の旧約聖書イザヤ書53章は、主イエスの十字架の死についての預言であると考えられています。
53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。
▲ 主イエスの十字架死によって神に対する罪を贖われた私達は、この御業に感謝と喜びをもって主イエスが父なる神にご自身を委ねられたように私達は、神に自分を委ねる生き方をするのです。
自分を神に委ねる(パラディドーミ)ことについて使徒言行録にはパウロについて次のように記されています。
14:25 ペルゲで御言葉を語った後、アタリアに下り、14:26 そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて(パラディドーミ)送り出された所である。
パウロの伝道者としての歩みは、神の傍らに居続けてて神に自分を委ねる、任す、託す生き方でした。その生き方によって神から祝福されて伝道者として多くの人を主イエスを信じる者に変え、教会を建てるという大きな働きをすることが出来ました。
◎ むすび
▲ レントが終わりに近づいてまいりました。私達には2つの生き方があります。
ひとつはイスカリオテのユダの生き方。彼は、主イエスの傍らにいることを拒み、祭司長達に主イエスを与えてしまいました。彼の生き方は、神に背を向けて離れる生き方です。しかし彼の最期な哀れでした。
もうひとつは神の傍らにいて自身を神に委ねる、任せる生き方です。主イエスがその生き方をされました。その生き方の先には十字架の死による全ての人の罪の贖いでした。
パウロをはじめとする使徒達は、神に我が身を委ねて人生を歩みました。教会二千年の歴史の中で信仰者は、教会に繋がり自分の人生を神に委ねて(任せて)歩みました。
私達も主イエスに倣って、教会の信仰の先達に倣って主イエスのみが私の救い主メシアであると信じ、地上の人生の先で御国での永遠の祝福に与れることを信じて歩んでまいります。
◎ホームページをご覧くださった皆様へ
▲ ソメイヨシノではありませんが桜が咲き始めました。春です。レントの中の皆様の歩みに神様のお守りをお祈り申し上げます。 ⛪⛪
◎3月15日礼拝
●聖 書 新共同訳書
◎ 旧約聖書 申命記30章11~12節(329頁)
30:11 わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。
30:12 それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。
◎ 新約聖書 ローマの信徒への手紙10章5~6節(288頁)
10:5 モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。
10:6 しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。
●讃美歌 1954年版讃美歌 540 3 67 138
●おとずれ(説教題)「救いの誤解」
説教者 山本昭夫牧師
◎ はじめに
▲ パウロは、主に異邦人に伝道致しました。しかしユダヤ人について言及します。ユダヤ人は、主イエスを救い主メシアと信じていませんが、パウロは、10・1で「ユダヤ人が救われる為にユダヤ人に代わって神に祈る」(私訳)とさえ言います。
ユダヤ人はパウロの伝道活動を妨害しました。迫害しました。パウロは、ユダヤ人から死ぬ程に鞭打たれました。しかしパウロは、ユダヤ人を憎むのではなく彼らが主イエスを救い主メシアと信じるようになる為に祈ると言っています。
このパウロのユダヤ人に対する対応は、神の愛に基づくものです。神の御子主イエスは、自分を十字架につけた人達(ユダヤ人)を憎むのではなく父なる神に「彼らをお赦ください」と祈られました。主イエスを救い主メシアと信じる人は、この神の愛を知っている人です。自分も神に愛されて主イエスを救い主メシアと信じる信仰を与えられていることを知っている人です。その人は、人を憎むのではなく赦すのです。
▲ この手紙にユダヤ人について言っているのは、ローマの教会の人達にユダヤ人への伝道を勧めているからです。
もうひとつは、やはり主イエスを救い主メシアと信じないユダヤ人を取り上げてローマの教会の人達が神から与えられている信仰を認識して欲しい為であると言えましょう。いわばユダヤ人を反面教師にしてローマの教会の人達が自分達の信仰を考える為です。
先週の箇所でパウロは、「10:4 キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」と言いました。
これを私訳すると「終わり/何故なら/律法の/キリスト(は)、義に関して信じている全ての人にとって」です。
パウロは、「キリストは、律法の終わりである」と言いました。その意味するところは、[主イエスを救い主メシアと信じる信仰は、律法を厳守の生き方である徒労の生き方に終止符を打つことになる]です。
何故なら人は、律法を厳守しようう努力しても神が求めておられるようには完全に律法を守れないからです。
◎ 救いへの誤解
▲ パウロは、本日の10・5~6で次のように言います。
10:5 モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。
10:6 しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。
新共同訳聖書では10・5から新しい小見出しが付いています。「万人の救い」という小見出しです。
「万人の救い」とは、主イエスの十字架、復活、昇天によって全ての人が救われる、地上の人生の先に御国で永遠の祝福に与ることです。
異邦人、ユダヤ人の区別なく全ての人がこの永遠の祝福に与ることです。全世界の人が救いに与るのです。ヨーロッパの人もアジアの人もアフリカの人も南北アメリカの人もオセアニアの人も7つの大陸の全ての人が主イエスが備えてくださった救いに与るのです。南極大陸には人は居ませんが。
▲ 新共同訳聖書の小見出しは新しくなりましたが、パウロは、先週迄のユダヤ人への言及を念頭に置いて語ります。その文脈の中で万人の救いを語り出すのです。
10・5を私訳すると「モーセは、書いている(現在形)/律法の義を行う(継続の文法の現在分詞)人は、それによって生きるであろう(未来形)と。」
パウロは、「モーセは、書いている(現在形)」と現在形で言います。
これはレビ記18・5のことです。
18:5 わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である。
モーセが書いたとされる律法の書(モーセ五書)は、遥か昔に書かれたものですから過去形で言っても良い筈です。しかしパウロは、現在形で言います。パウロは、モーセの律法が今も人の生き方を規定するものであるという現実があるからです。モーセの律法は、ユダヤ人の生き方を規定しました。生き方に枠をはめました。
「律法の義を行う(継続の文法の現在分詞)人」とはユダヤ人です。異邦人は、聖書を知りませんからモーセの律法も知りません。律法の義、即ち律法を厳格に守ることによって神に正しい者であろうとはしませんでした。それは当然のことです。
▲ しかしユダヤ人は、聖書を知っています。律法を知っています。律法を守ることによって何に与かれるかを知っています。それは、地上の人生の先にある神の御国での永遠の祝福です。
「それによって生きるであろう(未来形)」が未来形であるのは、地上を生きている人が律法を守ることによって地上の人生の先での御国での永遠に生きることを表しています。御国は地上の人生の先のことであるので未来形なのです。
▲次にパウロは、10・6を言います。
10:6 しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。
これを私訳すると「しかし信仰による義は、言う(現在形)/言うな(継続の文法)/あなたの心の中で。/誰が天の中に上るだろうかと/それは、キリストを上から下に完全に連れ降ろすことである(現在形)」です。
パウロは、10・5で「律法による義」について言い、10・6で「信仰による義」について言います。
「律法による義」は、分かり易いです。律法を守ることによって地上の人生の先に御国での永遠の祝福に与れるからです。但し完璧に律法を守ることは、人には不可能であるからい言っていることは分かり易いけれども実現は不可能です。それに対して「信仰による義」は、直ぐには何を言っているのか分かりません。
「信仰による義」について考える前にこの「律法による義」と「信仰による義」の言葉の並びについて見てみたいと思います。
▲ 「律法による義」の言葉の並びは、[義/~からの(起源)/律法]です。それに対して「信仰による義」の言葉の並びは、[~からの(起源)/信仰/義]です。
「律法による義」は、先ず最初に「義」があります。義から始まります。義とは、神に対する正しさであり、正しい人は、地上の人生の先に御国での永遠の祝福に与れるのです。そういう意味で義という言葉が最初に来ています。
次に「信仰による義」は、先ず最初に「信仰」があります(最初にの言葉は、「~からの(起源)」ですがこれは省略します)。義、神に対する正しさは重要なことです。しかしその前に信仰という言葉が置かれているのです。
▲ パウロは、義は勿論重要であるけれども、地上の人生の先に御国での永遠の祝福に与れる為に神に対する正しさは、重要であるけれども、その義を人にもたらすのは、律法厳守の行いではなく主イエスが救い主メシアであると信じる信仰である。それ故にパウロは、「信仰による義」は、先ず最初に「信仰」という言葉を置いているのです。
パウロは、「信仰による義」は、人に要求する事柄があると言います。それは、「言うな(継続の文法)/あなたの心の中で。/誰が天の中に上るだろうかと/それは、キリストを上から下に完全に連れ降ろすことである(現在形)」です。
パウロは、「誰が天の中に上るだろうかと」の部分を今日の旧約聖書申命記30・12を引用して言っています。
申命記30・12は神が民に言われた戒めのことです。既に神は、申命記5章で十戒を言われました。その戒めがここでも別の形で言われています。モアブ契約です。
神の戒め、律法は、人が「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うものではないのです。既に十戒として与えられているのだから誰かが天に昇って取って来るものではない、と神は申命記30章で言われています。
▲ パウロは、これを引用して言います。神は、主イエスという新しい契約は、申命記で民に天に昇って取ってくるものではない。既に主イエスによって与えられたものである、と言います。
主イエスを救い主メシアだと信じない者は、十字架、復活、昇天されて全ての人に[罪の赦しと御国での永遠の祝福]を約束されて、今は父なる神の右に座しておられる主イエスをその救い主メシアである座から降ろすことになるのだ、とパウロは言います。
それ故にパウロは、そのような主イエスを救い主メシアであることを否定するようなことを「言うな(継続の文法)」と継続の文法で言っています。即ち地上の人生の中で一生涯に亘って言わないように、と言っています。それは主イエスを救い主メシアである信仰を持ち続けるようにと言っているのです。
◎ むすび
▲ 神が私達に備えてくださったのは、地上の人生の先の御国での永遠の祝福です。それを神の御子主イエスは、十字架、復活、昇天によって実現してくださいました。
それ以外のものを神に求めるのは天に昇って何か新しい戒めを神に求めるような愚かな行為です。神は、主イエス以外のものを人にお与えになられませんでした。
▲ 私達は、地上で生きる為に様々なものを必要としています。しかし私達の地上の人生は長くても100年です。私達は、地上のものも必要です。しかし神が私達に備えてくださった御国での永遠の祝福こそが大切なものです。神が私達に一番大切なものとして与えてくださいました。
神は、私達に御国での永遠の祝福を備えてくださいました。その為に神の御子主イエスは、十字架に死んでくださいました。そのことに感謝しながら地上の人生を歩みます。勿論神は、そのような者として地上を生きる私達に必要なものを備えてくださいます。
◎ホームページをご覧くださった皆様へ
▲ 良く晴れた朝です。気持ち良いです。今週の歩みに神様のお守りをお祈り申し上げます。 ⛪⛪