日本キリスト教団 千歳教会(ちとせ きょうかい)のホームページにようこそ!
| 日本で最初の教会が建てられたのは、1872年(明治5年)の日本基督横浜海岸教会(今日の日本基督教会横浜海岸教会)です。それから150年余り経った今日では、日本中に数多く教会があります。私たちの日本基督教団千歳教会もその一つです。 教会と言いますと十字架のある建物のことを思われるのではないでしょうか。しかし、教会は、[神様によってイエス・キリストを救い主と信じるように呼び出された人の集まり]です。 聖書の神様は、愛の神様です。愛によって人に命を与えて下さいました。愛によって人の救いの為に御子イエス・キリストが十字架について下さいました。愛によって人の失敗を赦して下さっています。愛によって人に天の国での永遠の命を約束して下さっています。愛によって人生を歩んでいる人を守り、導いて下さっています。 聖書の神様は、日曜日毎に人を教会へ集めて下さいます。人は、礼拝で神様の愛を聴くと嬉しくなります。平安になります。生きる力が出ます。 神様は、あなたを教会へ招いておられます。西武新宿駅より鷺ノ宮駅まで急行で二駅12分、駅北口から徒歩4分の交通至便なところにあります。心よりお待ちしています。 |
| 心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。 (マタイによる福音書5章3~9節) |
★本日の教会学校(幼児~中学生の礼拝)
2026年3月15(日) 午前9:45~10:10
☆皆様が安心して礼拝出席出来るようにコロナ対策をしています。
☆親御さまも御子さまとご一緒に出席出来ます。
☆大人も出席出来ます。
☆下記の「★礼拝について」もお読みください。
★本日の礼拝(基本高校生以上の礼拝)
2026年3月15日(日) 午前10:30~11:30
★礼拝について
☆1月11日でクリスマスの礼拝が終わりました。1月18日よりローマの信徒への手紙に戻りました。
☆新しい方の出席を歓迎致します。お待ちしています。(^_^)
☆どなたでもご自由に出席出来ます。
☆高校生以下の方でも出席できます。
☆母子室がありますので小さいお子様連れでも安心です。
☆聖書と讃美歌は、教会にあります。
☆礼拝の中で献金がありますが、する、しない、金額は自由です。
☆基本的に毎月第一日曜日に聖餐礼を致します。
罪の赦しと御国での永遠の祝福の印である主イエスの御体を表すパン🥐と血潮を表ぶどうジュース🍷を頂きます。洗礼を受けておられる方、または幼児洗礼を受けて信仰告白をされた方は何処の教会の方でも頂けます。
●聖 書 新共同訳書
◎ 旧約聖書 申命記30章11~12節(329頁)
30:11 わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。
30:12 それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。
◎ 新約聖書 ローマの信徒への手紙10章5~6節(288頁)
10:5 モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。
10:6 しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。
●讃美歌 1954年版讃美歌 540 3 67 138
●おとずれ(説教題)「救いの誤解」
説教者 山本昭夫牧師
◎ はじめに
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◎ホームページをご覧くださった皆様へ
▲ ⛪⛪
★過去の説教(おとずれ)
☆過去2回の説教(おとずれ)が載せてあります。
◎3月8日礼拝
●聖 書 新共同訳書
◎ 旧約聖書 イザヤ書60章20節(1161頁)
60:20 あなたの太陽は再び沈むことなく/あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり/あなたの嘆きの日々は終わる。
◎ 新約聖書 ローマの信徒への手紙10章4節(288頁)
10:4 キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。
●讃美歌 1954年版讃美歌 539 2 66 136
●おとずれ(説教題)「恵みの始まり」
説教者 山本昭夫牧師
◎ はじめに
▲ パウロは、9章から神の選びを語ります。神の選びとは、神が人を選ばれることです。その目的は、人が地上の人生を終えた後に御国で永遠の祝福を与える為です。
教会の礼拝で神は、地上の人生の先約束されている御国で永遠の祝福を語られます。主イエスも地上の公生涯の活動の中で神の国、天の国を語られました。
教会には十字架の死、復活、昇天で全ての人への御国で永遠の祝福を実現された主イエスがおられます。主イエスは、聖霊なる神を通して御国で永遠の祝福を語られます。確かに私達は、主イエスを目で見ることが出来ません。しかし主イエスは、教会におられてかつて人の姿でガリラヤ地方で活動された時のように今日の教会で神の国、天の国を語られています。
▲ パウロは、人々に主イエスが救い主メシアであることを語りました。そして各地に教会を建てました。パウロの伝道の相手は異邦人です。しかしユダヤ人に対しても伝道しました。
パウロは、この手紙の9章で神が自由に人を選ばれることを語りました。ユダヤ人は、自分達こそ神に選ばれた民族であると思っていましたが、パウロは、神の自由な選びを語りました。それは、パウロの個人的な考えではなく神のお考えです。神は、パウロを用いて異邦人に主イエスが救い主メシアであるとの信仰を与えられました。
▲しかしパウロは、ユダヤ人も神の選びに与ることを願っています。パウロは、ユダヤ人です。血の繋がりから言えば同胞です。
それ故にパウロは、「10:1 兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。」と言います。意訳的に私訳すると「私が心からの喜びとすることは、ユダヤ人が救われる為に彼らに代わって神に祈ることである。」です。
▲ そのパウロは、先週の箇所でユダヤ人について言います。
10:2 わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。10:3 なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。
10・2、3を私訳すると「私は、彼ら(ユダヤ人)について経験したことを証言する。彼らが神の(御国で永遠の祝福に与る為に律法について)熱心を持っていることを(現在形)。しかし(彼らは)正しい知識を持っていない(現在形)。(彼らは)神の義を理解していない(知らない、無知である)、そして自分で神の義を自分自身に据えようと熱心に求めている(継続の文法)。神に従属させられることなく(継続の文法)。」となります。
パウロは、ユダヤ人が御国で永遠の祝福に与る為に律法を厳守しようとする熱心さを持っていると言います。しかし彼らは、神の義について正しく理解していない。何故なら律法を守ることによって神の義(神に対する正しさ)を獲得しようと熱心であるからだ、と言います。
◎ 恵みの始まり
▲ このようにユダヤ人が抱えている誤った認識、それは主イエスが救い主メシアであると信じないで神の義を律法を守ることによって獲得できるとする認識ですが、この認識について語った後に本日の箇所で言います。
10:4 キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。
これを私訳すると「終わり/何故なら/律法の/キリスト(は)、義に関して信じている全ての人にとって」です。
先ず10・4は、10・2、3と強い関係がある節となっています。確かに10・3はピリオドで終わっています。普通はピリオドで終わって次に節に入るとその節には前の節と区分する為に動詞があります。
しかし10・4には主動詞がありません。「信じている全ての人にとって」の「信じている」は分詞です。10・4の動詞は、この分詞がだけです。それは、この10・4がその前の節と繋がりが強いことを表していると考えることが出来ます。もう一つ主動詞がないことで考えられるのは、動詞を付けなかったことです。
▲ 10・4の最初の言葉は「終わり(テロス)」です。故にパウロは、主イエスは、律法の終わりを強調しています。「キリスト(は)」の「は」に相当する動詞を敢えて付けなかったとも考えられます。
聖書の中で敢えて動詞がない文があります。ヨハネ0・28でトマスは次のように言いました。
20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
この「「わたしの主、わたしの神よ」には動詞がありません。このように強く言う時には動詞が省かれることがあります。
パウロは、[主イエスは、律法の終わり]を強調する為に動詞(は)を付けなかったと考えられます。そしてその主イエスは、10・2、3の主イエスなのです。主イエスは、ユダヤ人にとって「しかし(彼らは)正しい知識を持っていない(現在形)。(彼らは)神の義を理解していない(知らない、無知である)」の主イエスなのです。
▲ 主イエスは、律法の終わりです。ユダヤ人が何故律法を厳守しようとしたのか、それは、神が出エジプト記20章で守るべき戒めとして十戒を言われたからです。これはシナイ契約です。
神は、創世記12章でアブラハムに約束された祝福に与るために十戒を言われました。神に対して正しい者でなければ(罪のない者でなければ)御国での神の永遠の祝福に与ることが出来ないからです。
その為にユダヤ人は、十戒という律法を厳守しようとしました。その為に613の規則を作りました。
しかし人は、神に罪を犯したアダムとエバの末裔です。故に拭いきれない罪を持っているのです。613の規則を厳守しても罪は残ります。
それ故に罪の問題を解決する為に神の御子主イエスがクリスマスの夜に降誕され十字架に死んで全ての人の罪を贖ってくださいました。
この主イエスは、ユダヤ人に律法の厳守を終わらせるお方です。アダムとエバの末裔故に人が守ることのできない律法を守ろうとする虚しい徒労を終わらせたお方です。
▲ パウロは、力強く言います。「キリストは、律法の終わりである」と。パウロが[主イエス]と言わずに「キリスト」と言ったのはキリストは、[救い主メシア]の意味であるからです。キリストは、[神から油塗られた者]を意味します。それは王、祭司、預言者です。主イエスは、キリストとして救い主メシアとしてこの三職をお持ちの救い主メシアなのです。
▲ 終わりは新しいことの始まりです。律法は、主イエスが十字架、復活、昇天されるまで全ての人が人生を生きる指針でした。御国で永遠の祝福に与る為の羅針盤でした。
しかし主イエスが救い主メシアとしておいでになってからは、律法はもはや全ての人の指針、羅針盤でなくなりました。主イエスこそが全ての人が御国で永遠の祝福に与る指針、羅針盤になりました。
人は、守りきれない律法を守ろうするのではなく主イエスを救い主メシアだと信じる生き方を始めるのです。
それは主イエスが成し遂げてくださった恵みを頂く生き方です。律法を守って神に正しい者であり御国で永遠の祝福を獲得しようとする能動的生き方ではなく、主イエスの恵みを頂く受動的生き方です。
律法には終わりがありました。主イエスの十字架、復活、昇天までの時限立法的な律法でした。しかし主イエスに終わりはありません。全ての人にとって主イエスは、永遠に救い主メシアなのです。
ルカによる福音書1・33には次のよう記されています。天使ガブリエルがマリアに言った言葉です。
1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
主イエスの「その支配は終わることがない」と天使ガブリエルは言いました。主イエスが如何なるお方であるかをガブリエルは言ったのです。
◎むすび
▲ 人が歩む人生は、様々な縛りがあります。なかなかホッとすることが出来ないのが人生です。常に何かをしなければ、何かを獲得しなければと能動的に生きています。
ユダヤ人は、御国で永遠の祝福という人が獲得すべき最高のものを求めて努力をしていました。彼らは、穏やかな生き方は出来ていませんでした。常に律法厳守という強迫観念に捉えられていました。
主イエスは、人に安らぎを与えれくださる救い主メシアです。人が必死に追い求めなくとも御国で永遠の祝福を用意してくださいました。
それだけでなく私達の日々の歩みにおいても私達が必死に掴み取ろうとするのではなく神の恵みの中に生きる平安をくださいます。
神は、御国で永遠の祝福をくださるのですから私達の日々に必要なものをもくださいます。
主イエスを信じる生き方は、平安のある生き方です。私達は、能動的に獲得する生きるのではなく神の恵みを頂く受動的な生き方をしてまいります。
◎ホームページをご覧くださった皆様へ
▲ 少し冷える朝です。今週も春を感じる中を歩んでまいりたいと思います。皆様に神様のお守りをお祈り申し上げます。 ⛪⛪
◎3月1日礼拝
●聖 書 新共同訳書
◎ 旧約聖書 詩編127編1節(971頁)
127:1 【都に上る歌。ソロモンの詩。】主御自身が建ててくださるのでなければ/家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ/町を守る人が目覚めているのもむなしい。
◎ 新約聖書 ローマの信徒への手紙10章2~3節(288頁)
10:2 わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。
10:3 なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。
●讃美歌 1954年版讃美歌 546 1 169 202 140
●おとずれ(説教題)「虚しさの終わり」
説教者 山本昭夫牧師
◎ はじめに
▲ パウロは、9章で神の選びを語りました。神の選びは、神が創世記12章でアブラハムに約束された永遠の祝福に与る選びです。
パウロは、この約束が血の繋がりによって継承されるのではなく、神の自由な選びであると言います。
ユダヤ人は、アブラハムの子孫です。ユダヤ人は、この約束はアブラハムの子孫である自分達への約束であり、異邦人は約束の中にいない、と考えていました。
しかし神は、異邦人に主イエスを救い主メシアと信じる信仰を与えられました。それは神がアブラハムに約束された永遠の祝福に異邦人を与らせることでした。主イエスを救い主メシアと信じた人は、人種や社会的地位に関係なくこの約束に与るのです。
他方ユダヤ人は、自分達こそこの約束に与る者であると考えていましたが、主イエスを救い主メシアと信じていないと与ることが出来ません。
ユダヤ人は、自分達がアブラハムの子孫でありこの約束に与る資格のある者であるという認識を持っていました。この認識が逆に主イエスを救い主メシアと信じることの足かせになっていました。
▲ パウロは、先週の10・1でローマの教会の人達に宛てたこのローマの信徒への手紙で言いました。「10:1 兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。」と。これを意訳的に私訳すると「私の心からの喜びとすることは、ユダヤ人が救われる為に彼らに代わって神に祈ることである」となります。
◎ 虚しさの終わり
▲ 今日の聖書個所でパウロは、ユダヤ人がアブラハムに神が約束された祝福に与れない彼らの間違いについて語ります。
10:2 わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。
私訳すると「私は彼ら(ユダヤ人)について経験している。彼らが神の熱心を持っていることを。しかし正しい知識については持っていない」となります。
ユダヤ人は、「神の熱心を持っている」のです。これは[神の救いに対する熱心を持っている]です。パウロは、彼らユダヤ人がこれに対する熱心を持っていることを経験している、と言います。
それは、パウロ自身がユダヤ人であり、かつてサウロと呼ばれて時にはこの「神の熱心を持っている。しかし正しい知識については持っていない」一人のユダヤ人であったからです。
▲ 「熱心(ゼーロス)」には[熱心、ねたみ]の意味があります。この熱心には良い熱心もありますが、ユダヤ人は、悪い熱心を持っています。神がアブラハムに約束された約束についての誤った熱心です。
この誤った「熱心(ゼーロス)」は次の聖書個所に出て来ます。
①使徒言行録
5:17 そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、
5:18 使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。
②フィリピの信徒への手紙
3:5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、
3:6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
ユダヤ人の神の約束への「熱心(ゼーロス)」は、排他的、攻撃的になります。寛容、喜びのない熱心になります。
それは、全ての人の罪を背負って十字架に死なれたという神の御子主イエスの愛を知らないからです。
パウロもかつてこの熱心さを持っていた一人のユダヤ人でした。そして過去の自分を回顧してフィリピの信徒への手紙で「3:6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」と言っています。
▲ ローマのユダヤ人達も教会への迫害、あるいは迫害に至らずとも嫌がらせをしていたのではないか、と思います。ローマの教会の人達は、そのユダヤ人の非友好的な所作に晒されていたのではないでしょうか。
そのローマの教会の人達に向けて先週の箇所でパウロは、「私の心からの喜びとすることは、ユダヤ人が救われる為に彼らに代わって神に祈ることである」と言いました。パウロは、迫害する者から相手を愛し、祈る者へと変えられました。
そしてローマの教会の人達にユダヤ人から嫌がらせ行為を受けても彼らの為に祈ろうと呼びかけているのです。十字架の主イエスを救い主メシアと信じる者にされた人は、敵意を持つ迫害者ではなく愛を持つ祈る者に変えられるのです。
キリスト者、クリスチャンの特徴は、敵意を持つ相手への祈りです。 主イエスは十字架の上で次のように祈られました。
23:33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕
ステファノも殉教する前に次のように祈りました。
7:59 人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。7:60 それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。
▲ パウロは、ユダヤ人について「正しい知識については持っていない」と言います。「正しい知識(エピグノーシス)」には[正確な知識]の意味もあります。この言葉の動詞形(エピギノースコー)には[知り尽くす]の意味があります。
何に関する「正しい知識(エピグノーシス)」と言いますと、神の義に対する正しい知識です。神の義とは[神に対しする正しさ]です。それは[神に対する罪のなさ]です。
[神に対しする正しさ]の知識は、誰も持っていません。この言葉の動詞形の意味は[知り尽くす]であると申しましたが、誰一人として神に対する正しさについて知り尽くした人はいません。何故なら全ての人は、神に罪を犯したアダムとエバの末裔である故に神への罪を持っているからです。神に罪ある者は、[神に対しする正しさ]の知識を知り尽くすことなど不可能なのです。
▲ この「正しい知識(エピグノーシス)」についてパウロは、ローマの信徒への手紙、エフェソの信徒への手紙で次のように言います。
①ローマの信徒への手紙
3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
②エフェソの信徒への手紙
1:17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、1:18 心の目を開いてくださるように。
パウロは、この手紙の3・20で「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない」と言います。これが神の義に対する正しい知識です。
そして続いてパウロは、エフェソの信徒への手紙で「主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、1:18 心の目を開いてくださるように。」と言います。神が人に働きかけることによってのみ神の義について「神を深く知ることができる」のだと言います。即ち人は、神が働きかけた時に御子主イエスが十字架に死ぬことによって人々の神への義を成就したという神の救いの計画を深く知るに至るのです。
▲ そのように言うパウロは、続く10・3で言います。
10:3 なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。
私訳すると「(ユダヤ人は、)神の義を理解していない(知らない、無知である)(現在形)、そして自分で神の義を自分自身に据えよう(継続の文法)と求めている(現在分詞)/神に従属させられることなく(継続の文法受動態)」です。
ユダヤ人は、神に対する正しさ、神の義への「正しい知識(エピグノーシス)」を知りません。彼らは613の規則を厳守することによって「神の義を自分自身に据えよう(継続の文法)と求めている(現在分詞)」のです。その姿勢は、神の義を神に委ねて自分を神に従属させられるという神の義に対して受動的になれないことになります。
◎ むすび
▲ ユダヤ人は、主イエスを救い主メシアと信じない故に能動的に神の義を求めました。神の義を神に委ねて神にお任せすることが出来ませんでした。
しかし彼らが多大な努力をしても彼らが求めている神の義に到達出来ません。神の義は、主イエスを救い主メシアと信じる以外には到達出来ないのです。
神の義は、神への正しさ、神に罪のない状態です。そして神の義に到達しなければ[罪の赦しと御国での永遠の命と永遠の平安]には到達出来ないのです。
主イエスのみが全ての人に神の義を与える救い主メシアです。その主イエスを信じる信仰によって[神の義に到達しようとする虚しい努力]は終わります。
人には出来ることと出来ないことがあります。地上の人生の中で努力によって到達できる様々なものがあります。
しかし全ての人が到達出来ないのが神の義です。これは十字架の死、復活、昇天の神の御子主イエスを[私の救い主]と信じる信仰によってのみ与えられる神の恵みです。
私達は、主イエスを信じて神の義を恵みとして頂きます。[罪の赦しと御国での永遠の命と永遠の平安]を恵みとして頂きます。
その頂く姿勢、神から頂く姿勢、受動的姿勢は、様々なものに関しても言えるのです。人生の様々な場面で神に委ねて私達は、生きてまいります。
努力して徒労に終わるとの虚しさだけが残ります。そうならない為にも神に委ねる生き方があります。勿論努力は大切です。しかし最後は神に委ねるのです。神のご計画、神が羅針盤の人生を歩むのです。それは虚しさからの終わりの人生になります。
◎ホームページをご覧くださった皆様へ
▲ 春の朝です。今日から3月です。3月のひと月の歩みに神様のお守りをお祈り申し上げます。 ⛪⛪