〒165-0032 東京都中野区鷺宮3-29-4 

日本キリスト教団 千歳教会(ちとせ きょうかい)のホームページにようこそ!


 日本で最初の教会が建てられたのは、1872年(明治5年)の日本基督横浜海岸教会(今日の日本基督教会横浜海岸教会)です。それから150年余り経った今日では、日本中に数多く教会があります。私たちの日本基督教団千歳教会もその一つです。
 教会と言いますと十字架のある建物のことを思われるのではないでしょうか。しかし、教会は、[神様によってイエス・キリストを救い主と信じるように呼び出された人の集まり]です。
 聖書の神様は、愛の神様です。愛によって人に命を与えて下さいました。愛によって人の救いの為に御子イエス・キリストが十字架について下さいました。愛によって人の失敗を赦して下さっています。愛によって人に天の国での永遠の命を約束して下さっています。愛によって人生を歩んでいる人を守り、導いて下さっています。
 聖書の神様は、日曜日毎に人を教会へ集めて下さいます。人は、礼拝で神様の愛を聴くと嬉しくなります。平安になります。生きる力が出ます。
 神様は、あなたを教会へ招いておられます。西武新宿駅より鷺ノ宮駅まで急行で二駅12分、駅北口から徒歩4分の交通至便なところにあります。心よりお待ちしています。

心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
(マタイによる福音書5章3~9節)

本日の教会学校(幼児~中学生の礼拝)
2024年4月21日(日) 午前9:45~10:10
☆皆様が安心して礼拝出席出来るようにコロナ対策をしています。
☆親御さまも御子さまとご一緒に出席出来ます。 
☆大人も出席出来ます。
☆下記の「★礼拝について」もお読みください


本日の礼拝(基本高校生以上の礼拝)
2024年4月21日(日) 午前10:30~11:20

★礼拝について
皆様が安心して礼拝出席出来るようにコロナ対策をしています。
☆マスクをしての礼拝となります。
☆新しい方の出席を歓迎致します。お待ちしています。(^_^)
☆どなたでもご自由に出席出来ます。
☆高校生以下の方でも出席できます。
☆聖書と讃美歌は、教会にあります。
聖 書 新共同訳書
◎ 旧約聖書 イザヤ書7章14節(1071頁)
7:14 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。
◎ 新約聖書 マタイによる福音書28章18~20節(60頁)
28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
讃美歌 1954年版讃美歌  539 13 68 161
とずれ(説教題)「永遠に私と共にいます主イエス」
 
説教者 山本昭夫
◎ はじめに
▲ 3月31日のイースター礼拝から私達は、マタイによる福音書の主イエスの復活の箇所より御言葉を聴いています。
復活の主イエスは、墓に婦人達に現れて次のように言われました。

28:9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。28:10 イエスは言われた。『恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」。

 そこで婦人達は、そのことを弟子達に伝えました。弟子達には、「28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」のでした。
▲ この一連の主イエスの復活の出来事ついて記されている7つの言葉があります。
①「イエスが行く手に立っていて」、②「おはよう」③「近寄り」、④「その前にひれ伏した。」⑤「ガリラヤへ行くように」、⑥「ガリラヤに行き」、⑦「イエスに会い、ひれ伏した。」
 まず①の「立っていて(ヒュパンタオー)」です。この言葉には[出迎える]の意味があります。聖書の中では命に関する箇所に出て来る言葉です。命に関する重大な状況にある人々が主イエスやって来る主イエスを出迎えるのです。
 次に②です。この「おはよう」は命令形です。私訳すると「喜べ」です。主イエスは十字架に死んでしまったと思い込んでいる婦人達は、天使から主イエスが復活したことを知らされます。
 しかし婦人達は、素直に喜ぶことが出来ません。死んだ筈の主イエスが復活したことへの恐れがありました。それは復活への懐疑の恐れです。
 そこで主イエスは、婦人達の心から恐れが完全になくなり、百パーセント喜びで満たされる為に「喜べ」と言われました。
 ③は、「イエスが行く手に立っていて」、「おはよう」と言われたことへの婦人達の応答です。「婦人たちは近寄り(プロスエルコーマイ)」ます。
 ④も婦人達の応答です。「その前にひれ伏した。(プロスクネオー)」のこの言葉は、マタイによる福音書2章のクリスマスの箇所に出て来ます。 

2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み(プロスクネオー)、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
 「拝み(プロスクネオー)」は、[礼拝する]の意味があります。占星術の学者達は、お生まれになったばかりの主イエスを神の御子として礼拝したのです。同じように婦人達は、百パーセント喜びに満たされて主イエスを礼拝したのです。「その前にひれ伏した。(プロスクネオー)」は、私訳すると「礼拝した」です。新共同訳聖書は、同じ言葉(プロスクネオー)を「拝み」と訳したり、「ひれ伏した」と訳しています。どちらも[礼拝する]の意味を持つ同じ言葉(プロスクネオー)です。
 ⑤の「ガリラヤへ行くように(アパンゲロー)」には、[引き返す、退く、帰る]の意味があります。主イエスは、弟子達にエルサレムを去って主イエスに弟子とされた土地であるガリラヤに帰るようにと言われました。
 何故ならエルサレムは、弟子達が主イエスとの関係を否定した町であるからです。またエルサレムは、全ての人が主イエスが救い主メシアであることを否定して十字架につけた町であるからです。
 主イエスは、そのような町であるエルサレムから退き、ガリラヤへ帰りなさい、と言われたのです。
 ②「ガリラヤに行き(ポリュオウマイ)」には[~を去る、~へ去る]の意味があります。これは、主イエスの命令に対する弟子達の応答です。弟子達は、エルサレムを去り、ガリラヤへと去って行きます。
 最後の⑦「イエスに会い、ひれ伏した(プロスクネオー)。」は、復活の主イエスを婦人達が礼拝したように、弟子達も礼拝します。これは、主イエスの命令に対する弟子達の応答の結果としての出来事です。
 クリスマスの夜に占星術の学者達が主イエスを礼拝しました。そして婦人達や弟子達も主イエスを救い主メシアとして礼拝します。
 主イエスは、公生涯の中でご自分の十字架の死と復活を繰り返して弟子達に予告されました。主イエスの公生涯の中では弟子達は、そのことを聞かされても主イエスを礼拝することはありませんでした。しかし今、弟子達は、主イエスが十字架と復活の救い主メシアであることが分かりました。そして主イエスを礼拝しています。

◎ 永遠に私と共にいます主イエス
▲ 主イエスは、主イエスを救い主メシアと分かった弟子達に言われます。

28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。

 先ず主イエスは、「近寄って(プロスエルコーマイ)」来られました。この言葉は、上記の③の婦人達が主イエスに「近寄り」と同じ言葉です。ここでは主イエスが弟子達に「近寄って(プロスエルコーマイ)」来られました。
 主イエスがいきなり弟子達に近寄って来られたのではない筈です。復活の主イエスは、婦人達になさったように①「イエスが行く手に立っていて」、②「おはよう」があったと考えることが自然です。そして弟子達は、婦人達がしたように主イエスに③「近寄り」、④「その前にひれ伏した。」のです。
 聖書には「28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。」と記されています。つまり主イエスが弟子達に会われた様子は、省略されていて主イエスが弟子達に会われた結論として弟子達が主イエスを礼拝したことのみが記されています。
 それは、復活の主イエスが婦人達、弟子達を出迎え、「おはよう(喜べ)」と言われたのは、彼らが主イエスを十字架と復活の救い主メシアとして礼拝するようになる為です。
▲ 主イエスを礼拝する者とされた弟子達に主イエスは、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」と言われます。この主イエスの言葉の冒頭の言葉は、「与えられている/私に」です。この「私に」は強調の「私に」です。主イエスは、主イエスという「私」を強調されているのではありません。「与えられている」を強調する「私」なのです。
 「与えられている」は、継続の文法の受動態です。[父なる神から与えられている私]と主イエスは、言われるのです。
 では何が父なる神から御子である主イエスに与えられているのかと申しますと、「天と地の一切の権能」です。私訳すると「天の中と地の中の全ての権威」です。「権威(エクスーシア)」には[統治権]の意味があります。
 この言葉は聖書の次の箇所に出て来ます。
①マタイによる福音書
9:5 『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。9:6 人の子が地上で罪を赦す権威(エクスーシア)を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。9:7 その人は起き上がり、家に帰って行った。
②ヨハネによる福音書
5:25 はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。5:26 父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。5:27 また、裁きを行う権能(エクスーシア)を子にお与えになった。子は人の子だからである。

▲ 主イエスは、この2つの聖書の箇所で父なる神から与えられいる権威を語っておられます。
 先ず「天の中の権威」について主イエスは、ヨハネによる福音書5章で言われています。
 このヨハネによる福音書5章で主イエスは、人に永遠の命を与えるお方であると言われます。その為に父なる神は、「裁きを行う権能(エクスーシア)を子(主イエス)にお与えになった。」と主イエスは言われます。
 主イエスの裁きは、人を永遠の死である陰府へ落とす裁きではなく、全ての人に[御国での永遠の命と永遠の平安]を無償で与える権威です。
 その為に主イエスは、「地の中の権威」をおもちです。この権威は、地上を生きる全ての人の罪の赦しの権威です。
 主イエスは、その権威をマタイによる福音書9章で言われました。
「9:6 人の子が地上で罪を赦す権威(エクスーシア)を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。」
 エルサレムの人々は、主イエスが人の罪を赦す救い主メシアであることを否定しました。否定し、十字架につけました。主イエスは、神の御子主イエスを十字架につる程の罪を犯している全ての人を十字架の死によって、自分の命を犠牲にすることによって赦されたのです。これが神の御子による罪の贖いです。
▲ 主イエスは、「28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われました。
 この言葉は、28・19で言われているようにこれから使徒として人々に「子と聖霊の名によって洗礼を授け」る働きをする弟子達に向かって言われた言葉です。
 しかし、そのような働きをする者達だけに言われた言葉ではありません。十字架の死と復活の主イエスの「天の中と地の中の全ての権威」によって地上を生きている全ての人は、既にアダムとエバの末裔として持っている神への罪が赦され、地上の人生を終えた先には[御国での永遠の命と永遠の平安]が約束されているのです。
 そのような全ての人に対しても主イエスは、「28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われました。
▲ この言葉の冒頭の言葉は、「私/共に/あなたがた/いる(現在形)」です。主イエスは、「私」を強調しておられます。人は、固有の人生を歩みます。一人一人生まれた時からこの世を終える迄の人生が違います。しかし主イエスは、「私」は一人一人と共にいると言われます。毎日、世の終わり、即ち主イエスが再臨される迄、と言われます。

◎ むすび
▲ 主イエスは、一人一人の人生で出会ってくださいます。そして婦人達や弟子達に言われた言葉を掛けてくださいます。そして全ての人は、主イエス礼拝する者とされます。全ての人は、共にいてくださる主イエスと共に与えられた人生を歩みます。感謝と喜びをもって神を礼拝し乍らの人生を歩みます。

◎ホームページをご覧くださった皆様へ
▲ ウクライナ戦争に加えて中東の戦争拡大が心配です。どうしてこうも人は争うのでしょうか。全ての人の造り主なる神は、悲しんでおられます。武力によって平和は実現しません。人は、他者との相互理解による平和に生きるしかないのです。 ⛪⛪

 ★過去のおとずれ(説教)要約
 
※更新後も読みやすくするために訂正することがあります。
 ここには基本的に過去2回分の説教のみ掲載しています。
  もし、それより過去のものをお読みになりたい方がいらしたら、
 「問い合わせメール」にてお知らせください。(^^) 

◎4月14日礼拝 
聖 書 新共同訳書
◎ 旧約聖書 エレミヤ書29章14節(1230頁)
29:14 わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。
◎ 新約聖書 マタイによる福音書28章16~20節(60頁)
◆弟子たちを派遣する
28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
讃美歌 1954年版讃美歌  546 12 67 148
とずれ(説教題)「主イエスとの出会い」
 
説教者 山本昭夫
◎ はじめに

▲ 2024年度が始まりました。今年のイースターは3月31日でした。そのイースターの翌日が4月1日でした。私達は、4月1日からの2024年度を復活された主イエスに導かれて歩み始めました。
 先週の礼拝は、4月最初の礼拝であり、2024年度最初の礼拝でした。[罪の赦しと御国での永遠の命と永遠の平安]の印である聖餐に与りました。
▲ 私達は、3月31日のイースター礼拝からマタイによる福音書の主イエスの復活の箇所より御言葉を聴いています。
 主イエスの復活の日の朝早く主イエスが葬られている墓に行った婦人達に天使が現れて次のように言いました。
 恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。…28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
 そこで婦人達は墓から立ち去り弟子達のところへ向かいました。すると復活された主イエスが婦人達に次のように言いました。
 行く手に立っていて、「おはよう」と言われた…「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
▲ 「行く手に立っていて(ヒュパンタオー)」には[出迎える]の意味があります。復活された主イエスは、出迎える主イエスです。公生涯の中の主イエスは、命に関する場面で人々から出迎えられるお方でした。しかし復活の主イエスは、今度は出迎える救い主メシアなのです。全ての人に[罪の赦しと御国での永遠の命と永遠の平安]を与える為に出迎える主イエスなのです。
◎ 主イエスとの出会い
▲ 本日の箇所は、主イエスが弟子達に会われたところです。本日は28・16~17より聴いてまいります。
 28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
 主イエスは、最後の晩餐の時からガリラヤで弟子達に会うことになると言われていました。そして本日のところまで繰り返し「ガリラヤ」という言葉が出て来ます。
①26:31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。
26:32 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
②26:69 ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。
③28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
④28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
▲ 主イエスは、ガリラヤ地方のナザレでお育ちになり公生涯の活動を始められた時の活動の拠点は、ガリラヤ湖畔のカファルナウムでした。主イエスは、12人の弟子達をガリラヤ地方でご自分の弟子にされました。つまり弟子達の多くはガリラヤ地方出身者でした。主イエスにとっても弟子にとってもガリラヤは特別なところでした。
 その弟子達に主イエスは、上記の①の通り最後の晩餐の時に「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」と言われました。その前に主イエスは、弟子達に「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。」と言われています。つまり弟子達は、「皆わたしにつまずく」けれども「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」と言われています。
▲ この「つまずく(スカンダリゾー)」には[罪を犯させる、見捨てる]という意味があります。主イエスの予告通りに弟子達は、オリーブ山で主イエスを見捨てて逃げてしまいます。
 ペトロは、主イエスが「皆わたしにつまずく」と言われた時に間髪を入れず「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。」と言いましたが、結局主イエスを見捨てて逃げてしまいます。
 しかも主イエスの裁判の時に「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言われた時に「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と答えて主イエスと自分の関係を完全否定してしまいます。
▲ 主イエスの逮捕から十字架の死に至るまで全ての人々は、主イエスとの関係を否定しています。主イエスは、神の御子なる救い主メシアです。故に主イエスとの関係の否定は、神との関係の否定になります。まことの唯一無二の全ての人の救い主メシアを否定したことになります。
 十字架の場面で人々は、主イエスに向かって次のように言いました。
 27:39 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、27:40 言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」27:41 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。27:42 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。27:43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」27:44 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
 誰一人として「主イエスは、救い主メシアである」と言う者はいませんでした。つまり主イエスは、全ての人から否定されて十字架に死なれたのです。
 故に主イエスは、「『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』」と叫ばれました。「お見捨てになったのですか(エグカタレイポー)」には[見捨てる、見殺しにする]の意味があります。
▲ このように全ての人は、神の御子主イエスを見捨てました。それは、全ての人が神との関係を否定したことになります。神の御子主イエスを十字架につける迄のことをして神との関係を徹底的に否定したのです。
 このことによって全ての人がアダムとエバの末裔として神に対して罪を持っていることが明白になりました。全ての人は、神に対して罪を持っています。故に全ての人は、地上の人生を終えた時に永遠の死である陰府に落ちていくのです。
 しかし主イエスの十字架の死は、父なる神による全ての人の救いのご計画です。主イエスは、全ての人に見捨てられ、全ての人の神への罪を担って「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。
 本来なら全ての人が人生を終えた時に神に対して「わたしをお見捨てになったのですか」と叫んで陰府へと落ちて行くのです。しかし神の御子主イエスが全ての人の代わりに神への罪を負ってくださって私達の代わりに「わたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。
 この主イエスの死によって全ての人の罪が赦されました。そして全ての人は、人生を終えた後に永遠の死である陰府へと落ちるのではなく、[御国での永遠の命と永遠の平安]の祝福を神から頂くのです。
▲ 主イエスの復活を知らせた婦人達の言葉を聞いた「十一人の弟子たちはガリラヤに行き、指示しておかれた山に登った。」のです。「ガリラヤに行き(ポリュオウマイ)」には[~から(from)去る、~へと(to)去る]の意味があります。継続の文法の受動態です。受動態は、主イエスによって弟子達がエルサレムからガリラヤへと去ることになったことを表しています。
 継続の文法は、弟子達が主イエスが十字架に死なれたエルサレム、主イエスを否定したエルサレムから去って二度とそのようなエルサレムへ戻らないことを表しています。
 その弟子達は、主イエスが「指示しておかれた山に登った。」のです。「指示しておかれた(タッソー)」には[命じる、定める]の意味があります。弟子達は、主イエスが命じられた山へ行きます。このことからも弟子達は、自分達の判断でガリラヤへ行ったのではないことが分かります。
▲ 主イエスが葬られた墓に行った婦人達は、天使から主イエスが復活されたことを聞いて「28:8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」のでした。婦人達の心は恐れと喜びが混在していました。
 11人の弟子達も婦人達と同じだった筈です。前代未聞の主イエスの復活という出来事に恐れと喜びが混在していました。弟子達の恐れは、前代未聞の主イエスの復活だけではありません。婦人達と違って別の恐れがありました。
 それは、主イエスを見捨てたという負い目です。神の御子を見捨てた罪です。弟子達にはこの罪は余りにも大きい。喜んでガリラヤへ行く気にはらならないのです。故に主イエスは、弟子達にガリラヤへ行くように彼らに命じておられるのです。
▲ この28章には命令形が多く出て来ます。婦人達に対して主イエスが4回、天使が3回ほど命令形で言っています。全て主イエスの復活に関する命令形です。主イエスは、婦人達に次のように言われました。
 28:9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」(命令形)と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。28:10 イエスは言われた。「恐れることはない(命令形)。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くよう(命令形)に言いなさい(命令形)。そこでわたしに会うことになる。」
 主イエスは、28・10で「ガリラヤへ行くよう(アパンゲロー、命令形)」と言われています。この言葉には[退く、引き返す、帰る]の意味があります。主イエスは、弟子達に主イエスを見捨て、主イエスとの関係を否定した町であるエルサレムを去りガリラヤへ帰る(戻る)ように命じておられるのです。
▲ 主イエスは、「弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」弟子達に婦人達に言われたのと同ように命令形で「おはよう(意味は、「喜べ」)」、「恐れることはない(恐れるな)」と言われたと考えられます。
 28・16の「ガリラヤに行き(ポリュオウマイ)」には上述したように[~から去る、~へと去る]の意味があります。この言葉は、ルカによる福音書7章に出て来ます。
 7:49 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。7:50 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい(ポリュオウマイ)、命令形」と言われた。
▲ 復活の主イエスは、主イエスを見捨てた弟子達をその舞台となったエルサレムから去らせられ、主イエスの御許へと去らせられました。十字架の死を経て復活された主イエスは、既に弟子達の罪を赦されます。それ故に罪赦されているのだから「おはよう(意味は、「喜べ」)」、罪の裁きを受けるとの不安を「恐れることはない(恐れるな)」と言われます。また主イエスは、「安心して行きなさい(安心して人生を歩みなさい。)」と言われます。
 復活の主イエスに会った弟子達は、罪を赦されたことに感謝し、悔い改め、安心して人生を歩みます。そして主イエスの十字架と復活によって罪を赦され、[御国での永遠の命と永遠の平安]の祝福を頂いていることに感謝し、喜んで主イエスが救い主メシアであることを宣べ伝える伝道者の務めを担うことになります。
◎ むすび
▲ 主イエスは、死を以て私達の罪を赦してくださった優しい、愛に溢れるお方です。しかしその復活の主イエスは、「全ての人におはよう(意味は、「喜べ」)」、「恐れることはない」、「安心して行きなさい」と命令形で言われます。命令形と言いますと相手に有無を言わさせない上からの押し付けのように思われます。主イエスが命令形で言われたのは、全ての人が主イエスの十字架、復活による[罪の赦しと御国での永遠の命と永遠の平安]の中で神を喜び、安心して人生を歩んで貰いたいからです。主イエスによって罪を赦されている認識、そこから湧いてくる神への感謝と喜びのある人生は、全ての人にとって必須だからです。故に主イエスは、命令形で言われました。私達は、主イエスのこのご命令に応える人生を歩みたいと思います。
◎ホームページをご覧くださった皆様へ
▲ 桜が散りました。今日は朝から春の暖かさを感じます。少し暑さを感じる程に気温が上がる予報です。皆様のひと週の歩みをお祈り申し上げます。⛪⛪ 

◎4月7日礼拝
聖 書 新共同訳書
◎ 旧約聖書 詩編30編12~13節(860頁)
30:12 あなたはわたしの嘆きを踊りに変え/粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。
30:13 わたしの魂があなたをほめ歌い/沈黙することのないようにしてくださいました。わたしの神、主よ/とこしえにあなたに感謝をささげます。
◎ 新約聖書 マタイによる福音書28章8~10節(59頁)
28:8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
28:9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
讃美歌 1954年版讃美歌  545 11 146 204 147
とずれ(説教題)「悲しみから喜びへ」
 
説教者 山本昭夫
◎ はじめに

▲ 先週の礼拝は、イースター礼拝でした。礼拝後には小平霊園にある教会墓地に行きまして墓前礼拝を致しました。春を越えた初夏の暑さの
天気の中での墓前礼拝でした。
 イースターの日に墓前礼拝をする教会は多いと思います。それは、主イエスの復活は、地上の人生を終えた全ての人の御国での永遠の命と永遠の平安であるからです。
 墓前礼拝の聖書個所はコリントの信徒への手紙一15章でした。そこの箇所でパウロは、「15:13 死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。」と言いました。パウロは、死者、即ち地上の人生を終えた人達と主イエスの復活を結び付けています。死者が復活するのは、主イエスが復活したからであり、主イエスの十字架に続く復活は、陰府に落ちて行くことになっている死者を御国へと引き上げるための復活なのです。
▲ 先週のイースター礼拝の聖書では日曜日の朝早く主イエスが葬られた墓に行った婦人達に天使が現れて「28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」と告げました。続けて天使は、「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』」と言いました。
◎ 悲しみから喜びへ
▲ 本日の箇所は、天使が命じたとおりに婦人達が主イエスの弟子達のところへ向かう途中で復活された主イエスが婦人達に現れた箇所です。
 「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び」と記してあります。私訳すると「恐れと大きな喜び」です。この婦人達の心には、「恐れ」と「喜び」が混在しています。「恐れ」は、主イエスが復活したことの恐れです。
▲ この「恐れ」は、主イエスの降誕の時にも起こりました。ヨセフとマリアは、天使の言葉に恐れました。主イエスについての知らせは、人にとって恐れなのです。救い主メシアである神の御子主イエスが人となって降誕される、救い主メシアである主イエスが十字架に死に復活された。この出来事は、人に恐れを生むのです。
 何故なら未知のことに対して誰でも恐れるからです。経験したことのないことを経験する時、人は恐れます。不安になります。この婦人達は、遠くから主イエスの十字架を見ていたと思われます。主イエスが死なれて葬られた目撃者です。その婦人達に天使から「28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」と聞かされて恐れない筈がありません。
 婦人達の心は、恐れだけではありません。「恐れ(フォボス)と大きな喜び(カラ)」が混在しています。そして「恐れと大きな喜び」ですから恐れよりも喜びが勝っています。恐れはある。しかし喜び方が恐れよりも大きいのです。
▲ その婦人達に主イエスが現れてくださいました。 

28:9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
 「行く手に立っていて(ヒュパンタオー)」には[出迎える]の意味があります。これは継続の文法です。この場合の継続の文法は、主イエスというお方は出迎えるお方であることを表します。
 復活された主イエスは、婦人達を出迎えられました。主イエスは、単に「行く手に立って」おられたのではありません。積極的に婦人達を出迎えられたのです。
▲ この言葉(ヒュパンタオー)は、聖書の中に出て来ます。特にヨハネによる福音書の中のこの言葉を見てみたいと思います。

①4:49 役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。
4:50 イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。4:51 ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て(ヒュパンタオー)、その子が生きていることを告げた。
②11:19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行った(ヒュパンタオー)が、マリアは家の中に座っていた。11:21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。
このようにヨハネによる福音書ではこの言葉が命の場面で出て来ます。主イエスは、役人の瀕死の息子を癒し、死んだラザロを生き返らせられました。その場面でこの言葉が出て来ます。
 マルタは、兄弟ラザロが死んでしまったという悲しみの中で主イエスを出迎えます。役人の息子の話では、主イエスが死にかかっていた息子が元気になった、死を免れたことへの喜びを告げる為に僕が主人である役人を出迎えます。
▲ 主イエスは、人に永遠の命を与えるお方です。誰もが地上の人生を終えた先に永遠の死である陰府があるのです。何故なら全ての人は、アダムとエバの末裔であり神に対する罪を持っているからです。
 しかし主イエスは、十字架に死んで全ての人の罪を担ってくださいました。それ故に全ての人は、地上の人生を終えた後に主イエスによって御国での永遠の命と永遠の平安の中に入れられるのです。全ての人にとって主イエスは、自分を永遠の死から永遠の命の中へ入れてくださる救い主メシアなのです。
▲ 主イエスは、そのような救い主メシアとして婦人達を出迎えられたのです。上記のヨハネによる福音書では、マルタが主イエスを出迎えました。他の聖書個所でも人が主イエスを出迎えます。主イエスが誰かを出迎える箇所はありません。
 しかし復活された主イエスは、婦人達を出迎えられます。主イエスは、全ての人を死から永遠の命と永遠の平安を与えるお方として出迎えられるのです。
 婦人達は、主イエスが出迎えられなくても弟子達のところへ行って天使から弟子達に「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。」と言いなさいと言われた、と伝えることは出来ます。
 しかしそれでは天使がそう告げたというだけのものになるのです。婦人達から天使がこう言いましたと聞かされても誰も信じないでしょう。ヨハネによる福音書20章には主イエスの復活を頑なに信じなかった弟子のトマスの話が出て来ます。
 復活の主イエスが婦人達に現れてくださらなければ、「天使はそう言ったけれども主イエスは、復活しなかったのではないか。」と思うようになります。
▲ 主イエスの降誕と十字架は旧約聖書の預言者(イザヤ)が預言しました。そしてその通りに主イエスは、降誕され十字架に死なれました。しかし主イエスの復活は、旧約聖書の中の預言書の中に見つけることは難しいのです。そこで主イエスは、公生涯の中で弟子達にご自分の復活を予告しておられます。更に婦人達に現れた天使が婦人達に主イエスの復活を告げたのです。
 主イエスの降誕、十字架、復活は、前以って誰かによって語られないで突然起こることはないのです。降誕と十字架につてはイザヤ書に記されています。そして復活については主イエスご自身が予告され、天使によって婦人達に告げられ、更に主イエスご自身が婦人達に現れてくださったのです。主イエスの復活については丁寧に語られているのです。
▲ それは復活が人間の理性を超えるものだからです。主イエスは、降誕し、公生涯を経て十字架に死なれました。主イエスの死は誰もが疑いません。人は、死ぬからです。
 十字架の周辺にいた全ての人は、主イエスが死んだと思いました。日曜日の朝に墓に行った婦人達も主イエスは、死んでしまったと思っていたからこそ墓に行ったのです。主イエスの復活を信じなければ主イエスの十字架の死は唯の一人の死になります。誰も救い主メシアが全ての人の罪を担って死んでくださったとは思いません。
 主イエスが本当に復活なさったことを信じることは、十字架に死んだお方が普通の人ではなく救い主メシアの死であることを信じることになります。時系列で言えば主イエスは、降誕され、十字架に死なれ、復活さなったとこになります。
 しかし信仰の流れでは、増先ず主イエスの復活を信じ、そして十字架に死なれたお方が全ての人の罪を担った救い主メシアであることを信じるのです。そしてその救い主メシアは、父なる神の御許から一人の人間として降誕されたことを信じることになります。このように時系列と信仰の流れは逆なのです。
▲ 主イエスは、婦人達に「おはよう」と言われます。この言葉は、主イエスの降誕に際して天使が「「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と言った「「おめでとう」と同じ言葉です。私訳すると「喜べ(カイロー(カラの動詞形)」です。現在命令形です。
 何故主イエスが婦人達に「喜べ」と言われたのかと申しますと「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び」であったからです。彼女達は、「恐れ」があったからです。天使から言われても心の片隅に主イエスの復活を信じ切れない「恐れ」があったのです。
 故に主イエスは、婦人達に「喜べ」と言われ、続けて「恐れることはない」と言われました。「大いに喜び」と「喜べ」は、同じ言葉の名詞(カラ)と動詞(カイロー)です。「恐れ」をもっと小さくして主イエスが復活したことを信じる喜びを大きくするように、最後には「恐れ」をなくして完全に「喜び」だけになるように、と主イエスは言われています。
▲ つまり主イエスは、婦人達に全ての人を死から永遠の命と永遠の平安の中に入れる救い主メシアであると信じて「大いに喜び」に満ちる者となるようにと言われています。何処かに「恐れ」を持っていれば弟子達に主イエスの復活を伝えることは難しいからです。
◎ むすび
主イエスは、ヨハネによる福音書16章で弟子達に次のように言われました。

16:20 はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜び(カラ)に変わる。
16:22 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶ(カイロー)ことになる。その喜び(カラ)をあなたがたから奪い去る者はいない。 
 主イエスは、この後婦人達から主イエスの復活を聞いた弟子達に現れてくださいました。そして彼らは、主イエスが全ての人を罪を担って十字架に死なれ、父なる神によって復活させられることによって全ての人に[御国での永遠の命と永遠の平安]を与える救い主メシアである喜びに満たされて使徒として人々に主イエスを宣べ伝えることになります。 主イエスは、教会で私達を出迎えてくださいます。そして主イエスの復活を信じて喜ぶ者、その主イエスによって罪の赦しと[御国での永遠の命と永遠の平安]の恵みが約束されていることを喜ぶ人生を歩みます。
◎ホームページをご覧くださった皆様へ
▲ 良く晴れた朝を迎えました。夜中に雨が降りましたが、晴れました。桜が満開です。今週は散ってしまいます。桜を楽しむひと週であれたらと思います。しかしウクライナ戦争、ガザ戦争、能登半島地震を思うと心は晴れ晴れとしません。神様に祈ります。 ⛪⛪ 

◎3月31日イースター礼拝 
聖 書 新共同訳書
◎ 旧約聖書 イザヤ書26章19節(1100頁)
26:19 あなたの死者が命を得/わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます。
◎ 新約聖書 マタイによる福音書28章5~7節(59頁)
28:5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
讃美歌 1954年版讃美歌  544 151 153 203 154
とずれ(説教題)「主イエス、復活される」
 
説教者 山本昭夫
◎ はじめに

▲ 本日の礼拝は、イースター礼拝です。2月14日からのレントが昨日で終わりました。先週の受難週礼拝では主イエスが「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたところから聴きました。「お見捨てになった(エグカタレイポー)」という言葉には、[見捨てる、見殺しにする]の意味があります。
 主イエスは、神の御子でありながらこの絶望の叫び声を上げられました。全ての人は、アダムとエバの末裔として神に対して罪を持っています。この罪を持っているままで人が地上の人生を終えた時には誰もがこの叫び声を上げることになります。この叫びは、永遠の死へと落ちて行く絶望の叫びです。
 主イエスは、全ての人がこの絶望の叫びしなくて済むように十字架で私達人間に代わって叫ばれ、死なれたのです。こうして主イエスは、私達人間の罪を負ってくだいました。
 これは、神の救いのご計画です。私達は、主イエスの十字架の死によって神への罪が赦されました。私達は、神に対して罪のない者になされました。もはや誰一人として永遠の死の世界に落ちて行く者はいません。全ての人は、永遠の命と永遠の平安の神の御国へと引き上げられる者になりました。

◎ 主イエス、復活される
▲ 主イエスが十字架に死なれてから3日目の日曜日の朝のことです。

28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
 すると天使が現れました。そして婦人達に言いました。天使は、先ず婦人達に「恐れることはない。」と言いました。この言葉は、現在命令形です。主の天使が現れた時に「28:4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」のです。当然婦人達も「恐ろしさのあまり震え上がり」ました。そこで天使は、「恐れることはない。」と言ったのです。
▲ 主イエスの降誕に際しても人は、恐れました。
①マタイによる福音書
1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
①ルカによる福音書
1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。

主イエスのお降誕と復活の時に天使が現れます。そして人は恐れるのです。天使が現れたからです。その天使は、人に想像も出来ない神のご計画を告げます。告げられる内容にも人は驚きます。そして恐れる人から喜ぶ人へと変えられて行きます。
▲ 天使は、続けて「十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」と言います。
 「十字架につけられた」は完了形受動態です。この完了は、主イエスが十字架に死ぬことによって全ての人の神への罪が赦さる神のご計画が完了したことを表します。
 「かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」の「復活なさった」は、継続の文法です。そして受動態です。この受動態は、十字架に死なれ、陰府へと降られた主イエスが自力で復活されたのではないことを表します。
 私達人間の罪を担って死んで永遠の死である陰府の世界にまで落ちて行かれた主イエスに自力で復活する力など残っていないのです。
 もし残っていたとすれば、主イエスは全身全霊で私達人間の罪を担って死なれたことになりません。そして私達人間の罪は、主イエスが自力で復活出来るだけの軽い罪になってしまいます。主イエスは、御子としての力を出し尽して十字架にしなれたのです。
▲ そして陰府に降られた主イエスの死によって陰府にいた全ての人の罪も赦されました。
 主イエスが十字架に死ぬ迄は、人の罪は赦されませんでした。エルサレム神殿で祭司が罪の赦しの犠牲を捧げても罪は赦されませんでした。罪のある人は、永遠の死の世界である陰府におちて行くしかなかったのです。
 しかし主イエスが十字架に死ぬことによって全ての人の罪は赦されたのです。地上を生きている人の罪も、陰府にいる人の罪も赦されたのです。
▲ 先週のマタイによる福音書27章の箇所には次のように記されていました。

27:50 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。
27:51 そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、27:52 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。27:53 そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。

「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。27:53 そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」という出来事は、マタイによる福音書のみに記されています。
 これは、主イエスが死ぬ前に地上の人生を終えて陰府に居た人達が主イエスの死と復活による恵みが記されています。
 既に陰府に居た全ての人は、主イエスによって罪を赦され、神に命を与えられ陰府から復活したことを象徴的に表現しています。陰府はもぬけの殻になったのです。
▲ 「復活なさった」が継続の文法であることは、主イエスの十字架に死と神がその主イエスを復活させられたことによってこれ以降の全ての人に[罪の赦しと御国での永遠の命と永遠の平安]が与えられ続けていることを表しています。 
主イエスが十字架に死なれて以降に地上の人生を終えた人は、一人残らず[罪の赦しと御国での永遠の命と永遠の平安]の恵みに与っています。この恵みから漏れる人はいません。
▲ 続けて天使は言います。

28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」

 天使は、復活された主イエスが「あなたがたより先にガリラヤに行かれる。」と告げます。私訳すると「(主イエスは)あなた方の前を行く(プロアゴー)」です。この言葉は、マタイによる福音書のクリスマスの箇所に出て来ます。

2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み(プロアゴー)、ついに幼子のいる場所の上に止まった。2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

 占星術の学者達は、星に導かれて降誕された主イエスに辿り着きました。復活された主イエスは、弟子達を導かれてご自分のところに導かれます。
▲ この言葉は主イエスの最後の晩餐にも出て来ます。

6:31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく(スカンダリゾー、未来形受動態)。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。26:32 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く(プロアゴー)。」
26:33 するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。26:34 イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

 最後の晩餐のところで主イエスは、この言葉(プロアゴー)を「つまずく(スカンダリゾー)」と一緒に言われています。主イエスは、「、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く(プロアゴー)。」と言われます。それは、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」からだからです。
 「つまずく(スカンダリゾー)」には、[罪を犯させる、見捨てる]の意味があります。
 主イエスは、十字架で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。「お見捨てになった(エグカタレイポー)」という言葉には[見捨てる、見殺しにする]との意味があります。全ての人は、神に対して生まれつき罪を持っており、主イエスがその罪を担ってこの叫びを上げられました。
言葉こそスカンダリゾーとエグカタレイポーの違いがありますが、弟子達は、主イエスが捕らえられた時に主イエスを見捨てて逃げてしまいます。その主イエスは、十字架で全ての人の罪を担い神に見捨てられる叫び声を上げられて死なれました。その死によって全ての人の罪を担い、赦されました。
▲ 復活された主イエスは、自分を見捨てた弟子達を再び弟子にされます。今度は使徒として全ての人に十字架、復活、昇天の主イエスが救い主メシアであることを宣べ伝える者にされます。

◎ むすび
▲ 全ての人は、主イエスに躓いています。弟子達でさえ主イエスに躓き、主イエスを見捨てました。「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と大言壮語しながら主イエスを見捨て手逃げて行き、主イエスの裁判では「そんな人は知らない」と言い張りました。
 主イエスは、そのようなペトロを赦されました。主イエスは、全ての人を愛して赦されるお方です。主イエスの愛、神の愛によって人は、躓く者から主イエスを信じる者、主イエスを礼拝する者、主イエスのおられる教会に繋がって人生を歩み者にされます。神を愛し、主イエスを愛し、他人を愛そうとする者になって行きます。
◎ホームページをご覧くださった皆様へ
▲ 暖かいイースターの朝です。一気に春がやって来た感があります。十字架に死に復活された主イエスの恵みである[罪の赦しと御国での永遠の命と永遠の平安]を喜び、神に感謝したいと思います。被災地の皆様のことをお祈り申し上げます。ウクライナ戦争、ガザ戦争に心が痛みます。尊い命が大事にされるよう平和的解決を祈ります。⛪⛪